伝記
ルイ1世・ド・ブルボンは、1279年に生まれ、1341年1月22日にパリで没したフランスの血統親王で、初代ブルボン公である。父はフランス王ルイ9世の末息子のクレルモン伯ロベール、母はブルボン女領主ベアトリス・ド・ブルゴーニュで、後にフランス王家となるブルボン家の祖とされる。父の存命中は「ルイ殿」と呼ばれ、後には大公、あるいは足萎公とも呼ばれた。1297年に騎士に叙されると、その年のフュルヌの戦いでフランドル勢と戦い、致命傷を負った従兄のフィリップ・ダルトワの遺体を敵から取り戻したという。1302年のクルトレーの戦いでは後衛を率い、敗北が避けられなくなると兵を連れてリールへ退いて、全滅も自らの破滅も免れた。1304年のモン=アン=ペヴェルの戦いにも加わり、こちらは勝利に終わった。
1308年には兄弟のジャン・ド・シャロレとともにブーローニュの馬上試合で賞を得た。1310年にエノー伯兼ホラント伯ジャン2世の娘マリー・ダヴェーヌと結婚し、この年に母が亡くなってブルボンの領主となった。国王フィリップ4世は強い信頼を寄せ、重要な外交の任務を託した。1311年にはフランドル伯領とエノー伯領の衝突を外交で防いだ。1311年から1312年のヴィエンヌ公会議が十字軍を呼びかけると、ルイはその司令官に選ばれ、リヨンで参加者を集めようとしたが、応じる者が少なく、計画はまもなく放棄された。侍従長に任ぜられたのは1310年とも1312年ともいわれる。
1316年にはのちのフィリップ5世にあたる摂政のポワティエ伯に味方し、ジャンヌ・ド・ナヴァールを王位に推すラ・マルシュ伯やブルゴーニュ公の動きに対抗した。父の死でクレルモン伯位とブルボンの所領を継いだのは1317年で、同じ年に新王へ金銀貨の鋳造権を売り、王の評議会にも加わった。1318年9月13日、フィリップ5世は十字軍を計画してルイを司令官に任じたが、1319年にジェノヴァでフランス軍と教皇軍の合同艦隊が皇帝派に敗れ、計画はつぶれた。1320年4月14日にはブルゴーニュ公ウード4世からテッサロニキ王位を4万リーヴルで買おうとしたが、ターラント公フィリッポ1世が同額を提示して割り込んだ。
1322年にフィリップ5世が没すると、ルイはラ・マルシュ伯シャルルの王位継承権を支持し、即位したシャルル4世のもとでサン=サルドスの戦争に従軍した。ヴァロワ伯シャルルの指揮下でモンセギュールやソーヴテールなどの町を英国から奪っている。1327年、シャルル4世に説得されてクレルモン伯領とラ・マルシュ伯領を交換し、ブルボン公に陞爵した。翌1328年にシャルル4世が世継ぎなく没すると、女性の王位継承を認めない立場のルイはヴァロワ伯に与し、新王フィリップ6世からフランス同輩衆に取り立てられた。1329年にはロンドンへ遣わされ、ギュイエンヌ公領をめぐる臣従礼に難色を示す英国王を説得し、その褒賞としてクレルモン伯領を取り戻したとされる。返還は1331年までともいわれる。
1333年に十字軍の計画が宮廷で再び持ち上がり、ルイは20年前に果たせなかったことを遂げられると考えた。1336年に教皇ベネディクトゥス12世がフィリップ6世の十字軍を中止するまで、その計画に欠かせない人物であり続けた。1341年に死去し、パリのジャコバン修道院の教会に埋葬された。長男ピエール1世はブルボン公を継いでポワティエの戦いで戦死し、ラ・マルシュ伯を継いだジャック1世はブリニェの戦いで戦死した。後のアンリ4世に始まるフランス王家は、ジャック1世の末裔である。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン3世 (ブルターニュ公) (1341年没)
- ゲディミナス (1341年没)
- アンドロニコス3世パレオロゴス (1341年没)
- Juliana Falconieri (1341年)
- マンスール・アブー=バクル (1341年没)
同じ地域に関係する人物
- ジャン=ジャック・ベネックス (2022年没)
- ガヴィーノ・ブガラル (1932年没)
- シャルル6世 (フランス王) (1422年没)
- アントワーヌ・コワズヴォ (1720年没)
- ヴィルヘルム・エゴン・フォン・フュルステンベルク (1704年没)