伝記
魯迅は、1881年9月25日、浙江省紹興府の士大夫の家系に生まれた中国の小説家、翻訳家、思想家である。本名は周樹人といい、弟に日本文化研究者の周作人、生物学者の周建人がいる。幼いころは裕福な家だったが、祖父が科挙の不正事件を起こして家が没落し、学問を尊ぶ伝統だけが残る家の長男として育った。1898年に南京の学校に入ったが内容に不満で退学し、鉱務鉄路学堂で厳復訳の『天演論』などを読んで新しい思想にふれた。1902年に国費留学生として日本に渡り、医学を専攻しながら、ニーチェやダーウィン、ゴーゴリ、チェーホフ、アンドレーエフらロシアの小説を読み、後の生涯に決定的な影響を受けた。ヴェルヌの『月界旅行』『地底旅行』の翻訳も手がけている。
1904年、仙台医学専門学校の最初の中国人留学生として入学した。学校側は無試験で学費も免除する厚遇ぶりで、解剖学の藤野厳九郎教授は丁寧に指導した。しかし学業半ばで退学する。日露戦争に関する時事的な幻灯を見せる講義で、中国人がロシアのスパイとして斬首されようとし、周囲の中国人が好奇心に満ちた顔でそれを眺める映像を見て、小説家を職業に選んだと、のちに最初の小説集『吶喊』(1923年)の自序に書いた。ただし研究者のなかには、この記述の事実性を疑う見方もある。東京に移ってからは雑誌の出版事業を企画したが、雑誌『新生』は未成に終わり、周作人が編集した『域外小説集』も売れ行きが伸びなかった。文学出版事業の失敗に落胆し、1909年に帰国した。7年間の留学で日本人の親友はできず、尊敬したのは藤野先生くらいだったという。
帰国後は杭州と紹興の中学校で生物学の教師を務め、1912年に中華民国政府が成立すると、教育部の僉事となって北京に移った。軍閥が争う混乱した政治に失望し、しばらくは中国文学の典籍研究に没頭していたが、友人銭玄同の要請で、雑誌『新青年』の1918年5月号に小説『狂人日記』を発表した。表では礼節を説く儒教が裏では人を食ってきたと指摘し、「真の人間」となることを説いた作品で、翌1919年には『孔乙己』と『薬』も発表している。代表作『阿Q正伝』では、国民性の中に潜む卑怯や惰弱を阿Qという形象に結晶させた。1920年秋から北京大学などで講師を務め、『中国小説史略』を講じた。1925年の学園紛争では処分に反対して論争を展開し、教育部員を罷免されたが提訴して勝利した。1926年の「3.18事件」で政府を激しく批判して指名手配を受け、北京を離れて厦門大学、次いで広州の中山大学に移った。広州で反共クーデターが起こると、抗議として職を辞した。
1927年10月に上海へ移り、許広平と暮らして、1929年に長男海嬰が生まれた。左翼の作家たちと論戦を重ね、1930年に中国左翼作家連盟が結成されると実質的な指導者となった。作品はしばしば国民政府に発禁とされたが、教職には就かず、毒舌的な雑文を矢継ぎ早に発表して、多岐にわたる論敵に厳しい攻撃を加え続けた。木版画の振興にも力を注いだ。1936年10月19日、上海で持病の喘息の発作により急逝し、万国公墓に葬られた。建国後の1956年には虹口公園(現在の魯迅公園)に改葬された。小説集3冊、雑文集17冊のほか、研究書や膨大な翻訳を残している。
同じ年に亡くなった人物
- カール・シュトゥンプ (1936年没)
- シャルル・ジュール・アンリ・ニコル (1936年没)
- コンスタンディノス・デメルジス (1936年没)
- ブラス・インファンテ (1936年没)
- ハンス・フォン・ゼークト (1936年没)