HISTORICAL PERSON · 1270年没

ベーラ4世 (ハンガリー王)

ハンガリー・アールパード朝の王(在位1235〜1270)。王権の強化に努め、1241年のモンゴル侵入で荒廃した国の復興を進めたことで知られる。

生涯
1270年没
死亡地
ハンガリー(ブダペスト / ブダ)
出生地
ルーマニア(トランシルヴァニア)
出典
世界地図
ハンガリー(ブダペスト)

伝記

ベーラ4世は、ハンガリー王国アールパード朝の国王(在位1235年から1270年)である。1206年11月29日に生まれ、1270年5月3日に没した。祖父ベーラ3世に倣った王権の強化と、1241年のモンゴル軍の侵入で荒廃した国の復興事業により、ハンガリー王の中でも有名な人物の一人とされる。

アンドラーシュ2世とゲルトルードの長子として生まれ、教皇インノケンティウス3世の希望により、誕生前から聖職者たちによって王位後継者と承認されていた。1213年9月28日に母が敵対的な貴族に殺害されたとき、おそらくその場に居合わせた。父は首謀者だけを罰し、ベーラは父に反感を抱いた。1214年初頭にブルガリア皇帝ボリルの娘と結婚し、若王として戴冠した。1220年にスラヴォニアの統治を任され、同年ニカイア皇帝テオドロス1世の娘マリア・ラスカリナと結婚したが、1222年に父から離婚を説得された。教皇ホノリウス3世が離婚を無効としたため、マリアを連れ戻し、父の怒りを避けてオーストリアへ移った。結局父は折れ、ダルマチアとクロアチアの統治も委ねられた。1226年にはトランシルヴァニアを任され、クマン人への布教を支援した。

1234年に父が30歳年下のベアトリーチェを妻に迎えると、父子の関係はさらに悪化した。1235年9月21日に父が没して王位を継ぎ、10月14日に戴冠を受けると、即位直後に若い継母と父の側近を告発して逮捕を命じた。父とは逆に、王領の回復に努め、文書の使用を義務づけ、王室顧問会議場から貴族たちの椅子を運び出して焼かせるなど、強硬な政策をとったため、貴族たちは不満を抱いた。都市の地位を高めるため、1237年にセーケシュフェヘールヴァールに関税免許や判事の選出権などの特権を与え、主要都市にも特権を広げた。

1239年、ベーラは族長クタンが率いる40,000戸のクマン人を受け入れ、モンゴルへの備えに加えようとしたが、遊牧民のクマン人と定住のハンガリー人は相容れず、対立が深まった。1241年3月12日にバトゥ指揮下のモンゴル軍が国境を突破すると、ペシュトの市民はクマン人が侵入を招いたとみなしてクタンらを殺害し、報復としてクマン人は各地で収奪を行ってブルガリアへ移った。王権回復に不満な大貴族が協力を拒む中で、4月11日のモヒ平原の戦いでハンガリー軍は大敗し、聖職者や貴族が戦死し、王の弟カールマーンも負傷がもとで落命した。ベーラはプレスブルクへ逃れオーストリア公フリードリヒ2世の保護を受けたが、多くの財貨と3つの州の割譲を余儀なくされた。皇帝や教皇に援助を求めたが、応じなかった。

モンゴル軍は翌1242年に凍結したドナウ川を渡って進み、ベーラはダルマチアの海岸部からアドリア海の島へ逃れた。同年3月、オゴデイ・ハーンの訃報を受けてモンゴル軍が東へ引き上げると、ベーラは島を出て、島に自分の名を冠した「ベーラ島」と名づけた。侵入の被害は居住区の25%から30%(山岳地帯)、50%から80%(平原部)に及び、人口は半減したと言われる。ベーラは復興のため軍事を中心とした改革を進め、1240年代末から石造りの城の建設に取り掛かった。ヴィシェグラードなどにはこの時代の建設物が今も残る。

晩年は、長子イシュトヴァーンとの争いに苦しんだ。1262年に和議を結んだが、支持者は互いの領地を攻撃し、王国は内戦状態に陥った。1267年には中小貴族の要求を受け入れる法令が出された。最期までベーラはイシュトヴァーンに心を許さず、寵愛したアンナと取り巻きの保護をボヘミアのオタカルに委ねて没した。

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