伝記
アルフォンス・ド・ブリエンヌは、十三世紀のフランスの貴族で、フランス侍従長を務めた人物である。アクルのアルフォンスとも呼ばれ、王権に近い立場にいた。妻との結婚によってウー伯となり、第8回十字軍の遠征先で世を去った。一二二七年ごろ、エルサレム王でラテン皇帝でもあったジャン・ド・ブリエンヌの長男として生まれた。母はその三番目の妃ベレンゲラ・デ・レオンで、レオン王アルフォンソ9世と、フランス王妃ブランシュ・ド・カスティーユの姉にあたるカスティーリャ女王ベレンゲラの娘である。名は母方の祖父アルフォンソ9世にちなむ。
彼は三番目の子で、異母姉にはエルサレム女王イザベル2世がいた。同母の姉マリーは、一二三四年にラテン皇帝ボードゥアン2世と結婚した。同母の弟には、ボーモン子爵ルイと、フランスの大執事を務めたジャンがいる。母方の祖母を通じてプランタジネット家の血を引き、フランス王ルイ9世とアルフォンス・ド・ポワティエとはとこの関係にもあたる。アルフォンスは二人の弟とともにコンスタンティノープルで幼いころを過ごしたが、一二三六年にルイ9世に預けられ、大人になってからもその側近くに仕えた。
一二五〇年ごろ、アルフォンスはリュジニャン家のウー伯ラウル2世とヨランド・ド・ドルーの娘で、唯一の相続人であったマリー・デクソダンと結婚した。この結婚は、マリーの祖母のウー女伯アリックスとブランシュ・ド・カスティーユのあいだの合意で決められた政略結婚であった。夫婦には四人の子が生まれ、長男のジャン2世はのちにウー伯となった。一二五六年十月には、妻がアルフォンスにシゼ城主の位を遺贈し、上級領主のアルフォンス・ド・ポワティエに夫を受け入れるよう頼んだ。パリ条約の交渉では、ルイ9世が自らの代理人にアルフォンスを選び、イングランド王の使者たちとの話し合いに当たらせている。
一二六〇年に妻と死別し、息子のジャンがまだ幼かったため、アルフォンスはウー伯領の摂政となった。同じ年、ルイ9世は彼をフランス侍従長に任じた。一二六五年には、従兄弟のカスティーリャ王アルフォンソ10世を助けて、アフリカのムーア人との戦いに加わった。勇敢に戦って大きな成果を収め、教皇クレメンス4世から祝意の言葉を受けた。
のちにルイ9世が第8回十字軍に出ると、アルフォンスも同行した。ルイ9世と同じく赤痢にかかり、一二七〇年八月二十五日、王と同じ日にチュニスで亡くなった。遺体はフランスに運ばれ、サン・ドニ修道院にルイ9世と並んで葬られた。娘のイザベルはダンピエール領主ジャン2世に嫁ぎ、マルグリットはトゥアールの女子爵となり、ブランシュはモビュイソン女子修道院の院長となってその教会に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- コンラト1世 (グウォグフ公) (1270年代没)
- メシア・ロペス・デ・アロ (1270年没)
- ベーラ4世 (ハンガリー王) (1270年没)
- ジャン・トリスタン (ヴァロワ伯) (1270年没)
- Margaret, Marchioness of Namur (1270年)
同じ地域に関係する人物
- モハメド・ブアジジ (2011年没)
- Ophellas (紀元前307)
- ハンニバル・ギスコ (紀元前258年没)
- 大テオドシウス (376年没)
- Tewhida Belshikh (2010年没)