伝記
アルフレッド・アドラーは、1870年2月7日、ウィーン郊外に生まれたオーストリアの精神科医、心理学者で、フロイト、ユングと並んで現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立した一人とされる。ハンガリー系ユダヤ人の父は穀物商を営み、母は夫の仕事を手伝う勤勉な主婦だった。6人兄弟の次男で、大家族のなかで育ったことが、自身の成長と独自の理論を発展させる基盤になったと本人も認めている。幼いころは声帯のけいれんとくる病に苦しみ、3歳下の弟が生後1年でジフテリアで亡くなり、自身も4歳ごろに肺炎で危うく死にかけたことが、医師を志す動機になったという。
ギムナジウムを経て、1888年にウィーン大学医学部に入り、1895年に卒業した。ユダヤ人や中下層の人が多く住むレオポルトシュタットで眼科医、のちに内科の診療所を始めた。診療所はプラーター遊園地の近くにあり、患者には空中ブランコ乗りなど、自分の身体能力で生計を立てる人が多かった。その中には、幼いころは身体が弱かったのに努力で克服し、弱点を強みに変えた人が少なくなかった。このことが、のちに器官劣等性と呼ぶ概念や「補償」「過補償」の理論につながった。1897年にライザ・エプシュタインと結婚し、1898年に最初の著作『仕立て業のための健康手帳』を刊行した。医学の正しい知識で社会をよりよくしようと考えており、当時沸騰していた政治運動とは一線を画していた。
1902年にフロイトから招かれ、水曜日の研究会の最初の5人のメンバーの一人となった。1907年に『器官劣等性の研究』を出し、1910年にウィーン精神分析協会の議長となったが、このころからフロイトと意見を異にすることが多くなった。1911年、フロイトはアドラーの説を、無意識と性欲を無視する「反動的で退化した一般心理学」だと激しく批判した。アドラーもフロイト理論を信じられなくなっており、同年に仲間とともに自由精神分析協会を設立し、ウィーン精神分析協会を脱退した。これがのちの個人心理学会である。翌年には『神経質について』を出版した。第一次世界大戦では1916年から軍医として従軍し、神経症の患者を大勢観察するなかで、共同体感覚が何より重要だと見出した。
戦後は、生涯でただ一度だけ政治活動に関わり、ウィーンの労働者委員として教育改革に従事した。その一環として1922年に児童相談所を設立し、親や教師にカウンセリングを行った。1924年にはウィーン教育研究所治療教育部門の教授に就任している。1926年末に初めてアメリカ合衆国へ講演旅行に出かけて大成功を収め、以後は一年の半分ずつをヨーロッパと北米で過ごした。1934年にオーストリアで独裁政権が樹立されると、翌1935年に一家でアメリカに移住した。1937年1月半ばからは、モスクワに移っていた長女ヴァリと連絡が取れなくなり、一家を苦しめた。のちに、夫婦ともトロツキストの嫌疑で逮捕され、強制収容所で1942年に亡くなったことが確認されている。同年、ヨーロッパへ講演旅行に出かけ、5月28日、スコットランドのアバディーン大学での連続講義の最終日、ホテルから散歩に出た直後に路上で昏倒し、救急車の中で心臓発作のため死亡した。67歳だった。遺骨の所在は長らく不明だったが、2007年に火葬場で骨壷が発見され、2011年にウィーン中央墓地に名誉改葬された。
同じ年に亡くなった人物
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