伝記
ベッシー・スミスは、ジャズ・エイジに広く名声を博したアフリカ系アメリカ人のブルース歌手である。テネシー州チャタヌーガで生まれ、誕生日は家族によって1894年4月15日と述べられ、以後の公文書にもその記載が見られる。ただし1900年の国勢調査には1892年7月生まれと報告されている。ローラとウィリアム・スミスの娘で、父は肉体労働者でパートタイムのバプテスト派の牧師だった。父が死んだとき娘は幼すぎて何も覚えておらず、9歳になるころまでに母と兄弟の1人も亡くなった。姉のヴァイオーラがきょうだいの世話を引き受けたが、ベッシーは教育を受けられず、「みじめな子供時代」を送った。兄のアンドルーのギターに合わせて、街角で歌い踊って小銭を稼いだ。二人が立ったのは、同地の黒人社会の中心にあるホワイト・エレファント・サルーンの店先だった。
1904年、長兄のクラレンスが家を出て、モーゼズ・ストークスの率いる小さな旅芸人の一座に加わった。クラレンスの妻モードは、ベッシーの熱意が強かったので、クラレンスは何も言わずに出ていったのだと語っている。1912年に一座とともに町へ戻ったクラレンスが、妹のオーディションを段取りした。一座にはすでに人気歌手のマ・レイニーがおり、ベッシーは歌手というよりダンサーとして雇われた。彼女はやがてコーラスラインで歌って踊るようになり、アトランタの「81」劇場を本拠とし、黒人経営の劇場の巡業でも目玉の1つとなった。1913年ごろから自分の演し物を発展させ、1920年までに南部と東海岸で名声を確立した。
1920年に別の歌手メイミー・スミス(無関係)の録音が10万枚以上売れたことで、女性ブルース歌手の市場が開かれた。1923年にコロムビア・レコードと契約し、2月15日に最初の録音を行った。最初のレコードは両面の曲がどちらも大ヒットとなり、コロムビアの新シリーズの第1弾には彼女のセメタリー・ブルースが選ばれた。力強いコントラルトの持ち主で、電気録音の登場はその声の力をさらに明らかにした。コロムビアで160曲を録音し、伴奏にはルイ・アームストロング、コールマン・ホーキンス、フレッチャー・ヘンダーソンら当時最高の音楽家たちが名を連ねた。1927年の「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」など、多くが発売年のベストセラーに入った。最も高給の黒人エンターテイナーとなり、自分の旅客車で巡業した。宣伝部がつけた「ブルースの女王」の称号は、全国メディアによって「ブルースの女帝」に格上げされた。その音楽は独立不羈と性的自由を強調し、労働者階級の女性は社会に尊重されるために自分を押し殺す必要はないと暗に主張していた。一方で、粗野すぎるとしてオーディションに落ちたこともあった。
世界恐慌とトーキーの出現で経歴は断ち切られたが、巡業を続け、時にはクラブで歌った。1929年にはブロードウェイの舞台に出たが失敗に終わり、同年11月には、ハンディの曲に基づく短編映画『セントルイス・ブルース』で主演し、唯一の映画出演を果たした。1933年にはジョン・ハモンドの依頼で4曲を録音した。これが最後の録音となり、伴奏はスウィング時代の音楽家たちによる比較的モダンなものだった。1937年9月26日、テネシー州メンフィスとミシシッピ州クラークスデールの間で、恋人リチャード・モーガンの運転する車がトラックの後部に衝突する事故に遭い、重体となった。この事故で43歳で亡くなり、録音の経歴は中断された。1989年にはロックの殿堂入りを果たし、同時代の歌手に多大な影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- ニルス・グスタフ・ダレーン (1937年没)
- ペルジディーン・ゲンデン (1937年没)
- フアン・アルトラ (1937年没)
- カレル・クラマーシュ (1937年没)
- アンドレ・ベセット (1937年没)
同じ地域に関係する人物
- ミシシッピ・ジョン・ハート (1966年没)
- ロバート・ジョンソン (1938年没)
- エメット・ティル (1955年没)
- チャーリー・パットン (1934年没)
- ハイラム・レベルス (1901年没)