伝記
サー・ジョゼフ・オースティン・チェンバレンは、1863年10月16日、バーミンガムで、実業家から政治家となったジョゼフ・チェンバレンとその妻ハリエット(旧姓ケンルック)の長男として生まれた。ミドルネームのオースティンを主に名乗った。母は出産時に亡くなったとされ、衝撃を受けた父は、その後およそ25年にわたって長男と距離を置いたという。1868年に父がハリエットの従姉妹フロレンスと再婚し、のちに首相となる異母弟ネヴィルが生まれた。姉のビアトリスに支配されがちだったため、ラグビー校へ送られ、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進んだ。父は早くから息子を政治家にするつもりで、パリの自由政治科学学院で学ばせ、クレマンソーらと会食する経験を通じてフランスの文化への愛着を育てた。続くベルリンでの1年ではビスマルクに会ったが、教授の講義からドイツの偏狭な排外主義への疑念も抱いたとされる。
1888年に帰国し、1892年3月30日、父の自由統一党の議員として庶民院に当選した。父と叔父に付き添われて議場に入ったと伝わる。1893年には、グラッドストンが出したアイルランド自治法案に反対して初演説を行い、グラッドストンは父に対して、息子の初演説は父親にとって貴重で気持ちのよいものだろうと述べた。保守党への政権交代後は閣僚を歴任し、1903年10月から1905年12月まで財務大臣を務めた。異例の若さでの就任で、関税改革を唱えて植民地大臣を辞した父や、その支持者をなだめる人事だったとされる。1905年に自由党政権となると野党議員となり、積極的な海軍の軍拡を主張した。1911年の議会法案に強硬に反対し、妥協に傾く党首バルフォアの弱腰を批判して、党首辞職に追い込んだ。後任の党首をめぐってはチェンバレンと別の有力者が目されたが、党の分裂を避けて二人とも辞退し、アンドルー・ボナー・ローが党首となった。
第一次世界大戦中の1915年5月にインド大臣となった。兵員が足りなくなると、ロイド・ジョージやチャーチルらとともに徴兵制導入の主要な論者となり、1916年5月に18歳から41歳の男性を徴兵する法案を可決させた。一方、クート作戦の失敗の責任を取って、インド大臣を辞したとされる。ロイド・ジョージ内閣では戦時内閣の一員となり、1919年1月から1921年4月まで再び財務大臣を務めた。1921年3月にはボナー・ローの後を継いで下院の保守党指導者に選ばれた。連立の維持に慎重な立場で、アイルランドとの交渉にも加わったが、党内の強硬派から批判された。1922年10月19日のカールトン・クラブの会合で連立反対の決議が出され、失脚して内閣も総辞職した。
1924年11月、第2次ボールドウィン内閣の外務大臣に就任した。1925年、スイスのロカルノでドイツ、フランス、イタリア、ベルギーとの間に、西ヨーロッパの国境維持と相互不可侵を旨とするロカルノ条約を結んだ。この功績で同年にガーター勲章を授けられ、ノーベル平和賞を受けた。1928年8月にはケロッグ=ブリアン条約の締結にも加わった。1929年6月に労働党政権が成立して辞職した。1931年にはマクドナルドの挙国一致内閣に短期間入閣している。1932年に異母弟ネヴィルが、父の悲願だった関税の導入を議会で報告したとき、二人は手を握り合い、議場から拍手を受けた。1906年に結婚したアイビー・ムリエル・ダンダスとの間には、2人の息子と1人の娘がいた。1937年3月に世を去り、日付は3月16日とも17日とも記される。
同じ年に亡くなった人物
- ツェツィーリア・フォン・グリーヒェンラント (1937年没)
- イーダ・ダルセル (1937年没)
- F.C.S. シラー (1937年没)
- コリン・キャンベル・クーパー (1937年没)
- マックス・カール・ヴィルヘルム・ヴェーバー (1937年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョージ・エリオット (1880年没)
- マリー・ランバート (1982年没)
- アンソニー・カーライル (1840年没)
- ヒュー・チザム (1924年没)
- エドウィン・オースティン・アビー (1911年没)