HISTORICAL PERSON · 1937年没

ジーン・ハーロウ

アメリカの女優。1930年代のハリウッドを代表するスターで、『地獄の天使』で転機をつかんだ。マリリン・モンローの登場まで、アメリカの代表的なセックスシンボルだった。

生涯
1937年没
死亡地
アメリカ合衆国(カリフォルニア州 / ロサンゼルス)
出生地
アメリカ合衆国(カンザス・シティ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(カリフォルニア州)

伝記

ジーン・ハーロウ、本名ハーリーン・ハーロウ・カーペンターは、1911年3月3日、ミズーリ州カンザスシティで生まれた。父モント・クレア・カーペンターは労働者階級の出身の歯科医で、母ジーン・ポー(旧姓ハーロウ)は裕福な不動産仲買人の娘だった。母は祖父の取り決めで1908年に結婚したが、未成年だったこともあり、結婚生活に不満を募らせていた。両親は彼女を「ベイビー」と呼び、本名がハーリーンだと知ったのは5歳になってからだった。母は過保護で、「この子はずっと私のもの」と語ったという。1922年9月29日に両親の離婚が成立し、親権は母に与えられた。1923年、母は女優になる望みを抱いて娘とハリウッドへ移ったが、年を取りすぎていると言われた。娘はハリウッドの女子校に入り、のちに俳優となるダグラス・フェアバンクス・ジュニアらと知り合ったが、14歳で退学した。やがてイリノイ州の学校に入ったが、母の恋人が近くのシカゴに住んでいたことが理由だったと伝えられる。16歳のとき大富豪の息子と駆け落ちしてハリウッドに戻った。この結婚は長続きしなかった。

友人に誘われてフォックスのスタジオへ行った際、友人から度胸を試す賭けを持ちかけられ、母の旧姓を借りて「ジーン・ハーロウ」の名で配役会社に登録した。1928年に端役として映画に出始め、人気俳優クララ・ボウや、当時絶大な名声を誇ったローレル&ハーディの作品でも端役を務めた。転機は、ハワード・ヒューズ監督の『地獄の天使』(1930年)だった。トーキーへの切り替えが決まり、主演のノルウェー人女優の訛りがひどかったため、代役に抜擢されたのである。この作品は年間興行成績のトップ10に入り、「ハリウッドで最もホットな新人」と呼ばれた。コロンビア映画が輝くようなブロンドの髪に着目して「プラチナ・ブロンド」の愛称を考案し、それを冠した作品を1931年に製作して成功させた。この印象が以後の基本イメージとなった。

1932年、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが契約を買い取ると、『紅塵』でクラーク・ゲーブルと並んで主演し、重要なスターの一人に数えられた。『晩餐八時』(1933年)ではライオネル・バリモアらとともに主役を務め、魅力的だが情け容赦なく男を翻弄する悪女を演じた。コメディの資質も注目され、『爆弾の頬紅』(1933年)や『支那海』(1935年)では、長い台詞を淀みなく演じる才能を生かす脚本が用意された。映画会社は当初から彼女の性的魅力を強調し、1932年公開の作品で瞬間的に全裸となる場面は観客に衝撃を与え、映画表現の自主規制であるプロダクション・コード制定の一因になったとも言われる。彼女のブロンドをまねて髪を脱色する若い女性が競って現れ、社会現象となった。

私生活も注目を集めた。『紅塵』の成功とともに映画監督ポール・バーンと再婚したが、バーンは3か月で自殺し、ハリウッドの大きなスキャンダルとなった。1933年には照明監督と三度目の結婚をしたが、1年で終わった。その後は独身を通し、ゲーブルとは遺作の『サラトガ』まで共演を重ねる人気の組み合わせだった。1937年、『サラトガ』を撮影中に急性腎炎を発症し、診断から数日後の6月7日に26歳で急逝した。撮影は4分の3まで進んでいて、残りは代役で完成され、200万ドルを超える興行収入を上げた。死後には映画女優として初めて雑誌『ライフ』の表紙を飾った。米国映画協会が1999年に選んだ偉大な女優50名では第22位だった。

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