伝記
プブリウス・リキニウス・クラッススは、共和政ローマ末期の政務官・軍人である。第一回三頭政治を行ったマルクス・リキニウス・クラッススの息子で、紀元前86年頃、あるいは82年に生まれ、紀元前53年に没した。母はテルトゥッラである。弟のマルクスが兄だったとする説もあり、兄弟のどちらが年長かは学者の間で意見が分かれる。ただ、父方の祖父と叔父にちなんで名づけられたプブリウスの業績は、兄弟の中で際立っていた。共和政が崩れる前に成人して政治の道を歩み始めた、最後の世代のローマ貴族の一人である。
家庭は、プルタルコスの『クラッスス伝』によれば、質素で秩序立っていた。父は莫大な富を持ちながら、家では贅沢を避けたといわれる。プブリウスは文学を好み、キケロを尊敬していた。父クラッススはカティリナ事件への関与をキケロに疑われたためにキケロを嫌っていたが、プブリウスは父を説き伏せて彼と親交を結んだという。キケロも若い彼に、名誉を得たいなら父祖の風習に従うよう助言し、シリアにいる父宛の書簡で、プブリウスと弟マルクスは美徳と人気を兼ね備えていると褒めた。キケロは彼の弁舌と人柄を高く評価した。
紀元前58年、近遠ガリア担当のプロコンスル、ガイウス・ユリウス・カエサルのもとで、プラエフェクトゥスとして騎兵を指揮した。アリオウィストゥス率いるゲルマン人との戦い(ウォセグスの戦い)では、敵の右翼の激しい攻撃に対して援軍を送った。紀元前57年からは副官(レガトゥス)として1個軍団を指揮し、大西洋沿岸のガリア人諸部族を帰服させた。第7軍団を率いて大西洋側のアンデスで越冬していたとき、穀物が不足したため諸部族へ使者を送ったが、これがきっかけでウェネティ族らが反乱を起こした。翌紀元前56年にはガリア南西部のアクィタニアへ派遣され、諸部族との戦いに勝って、その大部分を降伏させた。カエサルからも高く評価された。紀元前55年、おそらく財務官に就任し、ルキウス・リキニウス・ルクッルスの後継の鳥卜官にもなったと考えられている。クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカの娘コルネリアと結婚したのも、この頃である。帰国後は造幣三人委員として政治生活を始め、父が2度目の執政官職を目指した選挙運動では、警備の部隊を提供したともされる。
紀元前54年冬、父によるパルティア遠征に従軍するため、ガリアから騎兵1,000を連れてシリア属州の父のもとへ合流した。ユーノー神殿から出るときにつまずき、父ともつれ合ったことが悪い兆しと見なされたという。翌紀元前53年、騎兵を率いて軍の一翼を担い、バリッスス川に至った。軍団は休息を必要としていたが、プブリウスは父に進軍を進言した。カルラエの戦いで、パルティアの弓騎兵が絶え間なく矢を射かけてくると、父の命令で突撃したが、突出したところを包囲された。プブリウスは配下のガリア騎兵とともによく戦ったものの、軽装の彼らでは包囲を破れず、自身も重傷を負い、最後は守る騎兵ともども射殺されたという。カッシウス・ディオは、敵を侮って誘い出され、包囲されて斬られたと記している。前途を嘱望された経歴は、父とともに、無謀な戦いの中で断たれた。
プブリウスの死後、妻コルネリアとの間に子はおそらくいなかった。コルネリアは紀元前52年にグナエウス・ポンペイウスの5番目の妻となったが、紀元前49年9月、自らの目の前で再び夫の死に遭遇することとなった。
同じ年に亡くなった人物
- ガイウス・スクリボニウス・クリオ (紀元前76年の執政官) (紀元前53年没)
- マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前53年没)
- アウレリア・コッタ (紀元前53)
- Dumnorix (紀元前53)
同じ地域に関係する人物
- ヘブリン・ハーラフ (2019年没)
- マルクス・リキニウス・クラッスス (紀元前53年没)
- シリアのエフレム (373年没)
- テオドロス・アブー・クッラ (820年代没)
- クルチ・アルスラーン1世 (1107年没)