伝記
ヴァルラム2世・フォン・ナッサウは、ナッサウ伯ハインリヒ2世と、ゲルデルン・ツュトフェン伯オットー1世の末娘マティルデの子として、1220年に生まれたとされる。ハインリヒ2世の二男ともいわれるが、長男とする記述もある。母方の祖母リヒャルディスは、バイエルン公オットー1世の娘である。ヴァルラムの名は、1245年7月20日付の証書にはじめて現れる。1250年より前には、カッツェンエルンボーゲン伯ディーター4世の娘アーデルハイトと結婚した。夫婦の間にはディーター、アドルフ、リヒャルディス、マティルデ、イミナが生まれた。マティルデは幼くして亡くなり、イミナは1276年より前に亡くなっている。リヒャルディスはマインツの聖クララ修道院、のちにヴィースバーデン近郊のクラレンタール修道院の修道女となった。近年の研究では、のちに福者として崇敬された神秘家クリスティーナ・フォン・ハーネも、ヴァルラムの娘の1人だった可能性が高いとされる。
1251年より前に父の跡を継ぎ、兄弟のオットー1世とともにナッサウ伯となった。同じ1251年には、ドイツ王ヴィルヘルムからヘルボルンの都市特権を与えられている。1255年12月16日、ヴァルラムとオットーはラーン川を境に所領を分けた。この分割条約は、のちにプリマ・ディウィジオ(第一次分割)と呼ばれるようになる。ラーン川の南側にあたるヴィースバーデンとイトシュタインの領主権、ヴァイルブルクとブライデンシュタットの管区がヴァルラムの取り分となった。ナッサウ城とその付属地、ミーレンとシェーナウの管区のほか、ディーツ伯家と共有していたエスターアウやヘッセンにある封土なども、引き続き共同の所有とされた。この分割は、のちのちまでナッサウ家が二つの系統に分かれる出発点になった。
分割の直後かもしれないが、ヴァルラムは条約の一部の取り決めに不満を示し、異議を唱えた。そのころすでに心の病の影響を受けていたのかどうかは分からない。確かなのは、錯乱の発作のなかで、自分の手元にあった分割条約の写しを焼いてしまったことである。のちにはドイツ王ルドルフ1世のもとで宮廷元帥と枢密顧問官を務めた。いっぽうで、ニーダーラーンシュタイン、プファッフェンホーフェン、ファレンダーなどの町をトリーア大司教に奪われた。ヘッセンとのデルンバハの抗争も続けた。
ヴァルラムは1276年1月24日に没した。精神の錯乱のうちに亡くなったともいわれる。跡を継いだのは息子のアドルフである。妻のアーデルハイトは夫の没後、夏はヴィースバーデン、冬はマインツでクララ会の修道女として過ごし、1288年2月22日に没して聖クララ修道院に葬られた。アドルフは1292年から1298年までドイツ王となり、1298年7月2日にゲルハイムで没した。もう1人の息子ディーターは、1300年から1307年までトリーア大司教を務めた。ヴァルラムの系統はヴァルラム系と呼ばれ、ヴィースバーデンとイトシュタインを中心とする最初の分家は1605年に絶えた。ヴァルラム系からは別の分家も分かれ、そのうち二つの系統が1806年に公国に昇格した。ナッサウ公国は1866年にプロイセンに併合され、ヘッセン・ナッサウ州となった。ルクセンブルク大公家も、この系統の子孫にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- アフマド・アル=バダウィ (1276年)
- ムバーラク・シャー (チャガタイ家) (1276年)
- ハドリアヌス5世 (ローマ教皇) (1276年没)
- グレゴリウス10世 (ローマ教皇) (1276年没)
- Coppo di Marcovaldo (1276年)
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