伝記
グレゴリウス10世は、一二七一年から一二七六年まで在位したローマ教皇で、本名をテオバルド・ヴィスコンティという。一二一〇年ごろ、北イタリアのピアチェンツァで生まれた。ヴィスコンティ家の出とされるが、ポルトガル語版の記事によれば、ミラノの同名の領主家とは無関係だとする資料もあり、ピアチェンツァ系の分家の出とする資料もある。幼いころの情報は乏しく断片的で、父は市の長官オベルトであった可能性が高いという。
最初の確かな記録は一二三六年で、ピアチェンツァ出身の枢機卿ジャコモ・ペコラーラに見いだされ、その従者となった。一二三九年には枢機卿に従ってフランスへ赴き、巡礼者に変装して皇帝フリードリヒ2世側の追手を逃れるという波乱の旅をしたと伝えられる。この縁でリヨンで教会法学者の役職を得て、のちリエージュの助祭長に就いた。一二四五年にはリヨン公会議の準備を助け、教皇や枢機卿の信頼を得た。パリでは一二四八年から四年間を過ごし、ボナヴェントゥラやトマス・アクィナス、のちに教皇となるクレメンス4世やインノケンティウス5世らと親交を結んだとされる。一二六七年に十字軍の誓いを立て、翌年にかけてはオットボノ・フィエスキ枢機卿(のちの教皇ハドリアヌス5世)に随行してイングランドに派遣された。
一二六八年十一月二十九日にクレメンス4世が没すると、ヴィテルボで教皇選挙が始まった。枢機卿団はフランス系とイタリア系に分かれ、三分の二の票を集められないまま譲歩も拒んだ。一二七〇年夏にはヴィテルボの市民が枢機卿たちを閉じ込め、食料も減らしたが、状況は動かなかった。枢機卿の数が十五人まで減った一二七一年、六人の枢機卿が協議して一人を選ぶという妥協案が出され、九月一日にテオバルドが選ばれた。彼はそのとき、イングランド王太子エドワードとともに第9回十字軍に加わってアッコにおり、枢機卿の召還を受けて十一月十九日に発ち、翌年二月十二日にヴィテルボに着いた。三月にローマへ入り、十九日に司祭、二十七日に司教に叙階された。選ばれた時点では司祭ですらなかったのである。
教皇として、キリスト教諸国の紛争や東西教会の分裂、エルサレムの奪回など山積みの課題に向き合った。モンゴル皇帝クビライのもとへ向かうポーロ家の人々に教皇の親書を託し、ドミニコ会の修道士二人の同行も認めた。修道士は途中で引き返したが、マルコ・ポーロらは上都でクビライに謁見した。神聖ローマ帝国が大空位時代にあったため、皇帝の位を求めるカスティーリャ王アルフォンソ10世の要求を退け、選帝侯に選挙を求めた。一二七三年九月にルドルフ・フォン・ハプスブルクが選ばれると即座に承認したが、ルドルフはローマ行きを延期した。
一二七四年五月一日には第2リヨン公会議を開き、約千六百人が出席した。七月六日の会議では東西教会の合同が一時的に達成されたが、東ローマ皇帝ミカエル8世が政治的な理由から同意したにすぎず、長続きしなかった。教皇選挙の長期化を戒めるため、枢機卿団を外界から隔離し、決まらない日が続くと食事を減らす規定も定めた。教皇の死後は各地の枢機卿の到着を十日間待ち、三日間決まらなければ食事を一皿ずつにし、それでも決まらなければパンとワインと水だけにするという内容である。この規定は同じ年のうちにヨハネス21世に廃止されたが、一二九四年にケレスティヌス5世が復活させた。一二七六年一月十日、帰途のアレッツォで世を去った。十八世紀に列福され、ポルトガル語版の記事は一七一三年のクレメンス11世によるものとしている。
同じ年に亡くなった人物
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- ハイメ1世 (アラゴン王) (1276年没)
- インノケンティウス5世 (ローマ教皇) (1276年没)
- Coppo di Marcovaldo (1276年)
- スムバト・オルベリャン (1276年)
同じ地域に関係する人物
- リュック・フェラーリ (2005年没)
- リーチオ・ジェッリ (2015年没)
- ピエロ・デラ・フランチェスカ (1492年没)
- ガイウス・マエケナス (紀元前8年没)
- アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタ (1943-2021) (2021年没)