伝記
ウルバヌス2世は、11世紀後半にローマ教皇の座にあった人物である。1042年に生まれ、1099年7月29日に没した。在位は1088年から1099年までで、本名はラゲリウスのオド、あるいはウード・ド・シャティヨンという。フランスの地方貴族シャティヨン家の出身で、同家からは後に第2回十字軍に参加してアンティオキア公となったルノー・ド・シャティヨンが出ている。のちに福者とされ、1881年に教皇レオ13世によって列福された。
若いころから聖職者になるべく教育を受け、1050年ごろからランスの司教座聖堂付属学校で学んだ。ケルンのブルーノに師事したのち、クリュニー修道院に入り、院長を務めた。やがてクリュニーと関わりの深かった教皇グレゴリウス7世に招かれてローマに赴き、オスティアの司教枢機卿となった。グレゴリウス7世が進めた教会の自己改革、いわゆるグレゴリウス改革では教皇の右腕として働き、とりわけ1084年に教皇代理として神聖ローマ帝国に派遣された際には、外交の手腕を示したとされる。グレゴリウス7世は後継候補として3人を挙げたが、その中にオドも含まれていた。1085年にはモンテ・カッシーノ修道院長デシデリウスがウィクトル3世として選ばれたものの、その死後、1088年3月にテッラチーナで開かれた小さな集会で、オドが喝采によって教皇に選出された。
即位したウルバヌス2世は、前任者の改革路線を忠実に受け継ぐと表明しつつ、より柔軟で外交的な手法をとった。当初はローマを対立教皇クレメンス3世に押さえられ、ローマを離れて北イタリアやフランスを巡ったが、ローマ、アマルフィ、ベネヴェント、トロイアなどで開いた教会会議で多くの司教の支持を集めた。聖職売買の禁止、聖職者の独身制の徹底、俗権による聖職者叙任の排除を改革の柱とし、教会の綱紀粛正で目に見える成果を上げた。師のブルーノもローマに招き寄せて、改革を支えさせている。皇帝ハインリヒ4世との抗争も続け、トスカーナ女伯マティルダとバイエルン公子ヴェルフの結婚を仲立ちし、皇帝の長男コンラートの反乱や、皇后アーデルハイトの訴えを支援した。フランス王フィリップ1世の離婚と再婚の問題では、教皇使節による破門を支持した。イングランドでは、王ウィリアム2世と対立して国外へ逃れたカンタベリー大司教アンセルムスを支えたという。
1095年3月のピアチェンツァ教会会議で、東ローマ皇帝アレクシウス1世の使者から、トルコ系諸勢力に対する援軍を求められた。その年の11月、フランス中部で開かれたクレルモン教会会議には、イタリア、ブルゴーニュ、フランスの多数の司教が集まった。会議の主題は教会内部の改革であったが、27日の最終日に、屋外に集まった大勢の聴衆へ向けて演説し、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書の表現を引いて、聖地をイスラム教徒の手から取り戻すよう呼びかけた。聖地の奪回に加わる者の罪は赦されると説いたとも伝えられ、スペインでイスラム教徒と戦う者にも同じ赦しが及ぶとされた。人々は「神の御心のままに」と応えたと伝えられ、これが第1回十字軍の出発点となった。ル・ピュイ司教アデマールを教皇使節に任じて遠征を率いさせた。一方で、この遠征は東地中海世界に侵略や虐殺をもたらす道を開いたとも批判される。ウルバヌス2世は十字軍によるエルサレム占領の14日後に世を去り、その知らせを聞くことはなかった。
同じ年に亡くなった人物
- ドナルド3世 (スコットランド王) (1099年没)
- エル・シッド (1099年没)
- ペトルス・バルトロメオ (1099年没)
- Tatikios (1099年没)
同じ地域に関係する人物
- セルギウス4世 (ローマ教皇) (1012年没)
- ユウェナリス (128年没)
- フランコ・ロッシ (2000年没)
- Hendrik Voogd (1839年没)
- フランチェスコ・マリア・デル・モンテ (1627年没)