HISTORICAL PERSON · 1279年没

アフォンソ3世 (ポルトガル王)

第5代ポルトガル王。兄サンシュ2世に代わって即位し、1249年にアルガルヴェを攻略してレコンキスタを完了した。1255年に都をリスボンへ移し、平民の代表を初めてコルテスに参加させた。

生涯
1279年没
死亡地
ポルトガル共和国(リスボン県 / リスボン)
出生地
ポルトガル共和国(コインブラ)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(リスボン県)

伝記

アフォンソ3世は、第5代のポルトガル王(在位1248年〜1279年)である。1210年5月5日、コインブラで、アフォンソ2世と王妃ウラカ・デ・カスティーリャの次男として生まれた。兄が第4代のサンシュ2世であり、本来は王位を継ぐ立場になかった。若いころにフランスへ渡り、叔母のブランシュ・ド・カスティーユのもとで騎士として頭角を現し、ルイ9世のもとでイングランド王ヘンリー3世との戦いにも加わったという。1230年代にブローニュ女伯マティルド2世と結婚して、ブローニュ伯などの位を得たが、これは妻の権利による称号であった。結婚の年は1235年とも1238年ともいわれる。

彼がフランスに滞在するあいだ、ポルトガルでは兄サンシュ2世と国内の聖職者が衝突を深めていた。1245年、教皇インノケンティウス4世が新たな王を立てるよう指示し、サンシュに代わる王としてアフォンソに白羽の矢が立った。彼はパリで聖職者と協定を結び、教皇の命を受け入れてポルトガルに戻った。1246年にリスボンへ到着し、南部を拠点にサンシュ軍と戦ったが苦戦した。しかしサンシュが頼みにしたカスティーリャの援軍が届かず、兄は王位を放棄してトレドへ退いた。サンシュは子を残さず1248年にトレドで没し、アフォンソが王位を継いだ。

即位すると国内支配の強化を急ぎ、ポルトガル南部に残るイスラム教徒との戦いを進めた。1249年3月にアルガルヴェ東部のファロなどを落とし、ポルトガルのレコンキスタは完了したとされる。以後の経済は、略奪中心の軍事的な体系から、生産と交易を主とする体系へ移っていった。1252年にカスティーリャ王となったアルフォンソ10世とはアルガルヴェの支配権をめぐって争い、1253年に教皇の仲裁で一時は統治権を譲る形で講和した。その際、マティルドと離婚し、アルフォンソ10世の庶出の娘ベアトリスと再婚した。教会は不快感を示したが、国民はベアトリスを歓迎し、1263年には教皇も再婚を認めた。1263年の協定でアルガルヴェの支配権は王子ディニスに与えられ、1267年までにポルトガルは領有権を確保した。

内政では、民衆の支持を得ることに熱心で、公正な裁判と保護を約束した。1254年にレイリアで開いたコルテスには、有力な自治体の一員として、初めて平民の代表が参加した。貴族や聖職者の権力から都市を庇護し、1255年には首都をコインブラからリスボンへ移している。新都に強い愛着を抱き、居住条件の改善や王領地の拡大で町を「購入」しようとしたため、市民の反感も招いたが、町はのちに彼を常に支持したという。治世の全期間、友人や寵臣が政府の重職にとどまり、権力の濫用も助長した反面、行政組織の確立には役立ったとされる。一方で、教皇の後ろ盾で即位しながら教会に盲従せず、ポルト司教とエヴォラ司教を除く高位聖職者の多くと対立した。父の代から行われた王領検地を再開し、貴族や聖職者を従わせたが、その調査は父の時代より苛酷だったという。1275年に教皇グレゴリウス10世が服従を要求すると拒んで破門されたが、死の直前に教会と和解し、1279年2月16日にリスボンで没した。王位は後妻ベアトリスとの子ディニスが継いだ。

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