伝記
マグヌス6世は、13世紀後半のノルウェー王である。父の名をとってマグヌス・ホーコンソンと呼ばれ、法を改めた王として「改法王」の異名をもつ。1238年5月1日に、国王ホーコン4世と王妃マルグレーテ・スクレスダッテルの末の子として生まれた。兄のホーコン青年王が世を去ると、王位の継承者となり、1257年からは父の共同統治者として王の称号を与えられた。1261年9月11日には、すでに殺されていたデンマーク王エーリク4世の娘インゲボーと結婚した。この年、夫妻は戴冠した。妻の相続をめぐる争いは、のちに長年にわたるデンマークとの対立の原因となった。
1263年、ホーコン4世はスコットランドとの戦いのために遠征に出て、オークニー諸島の陣中で亡くなり、マグヌスは単独の王となった。マグヌスは、スコットランド王アレクサンダー3世との和平の交渉に入った。1266年のパース条約で、マン島とヘブリディーズ諸島に対するノルウェーの権利を放棄し、4,000マルクと年100マルクの支払いを受けることになった。見返りとして、スコットランドはオークニーとシェトランドに対するノルウェーの主権を認めた。この交渉の背景には、1223年以来の通商条約をもつイングランドの圧力もあったとされ、その条約は1269年のウィンチェスター条約で自由貿易の取り決めとなった。ただしスコットランドは、のちに約束の支払いを止めた。マグヌスは圧力をかけず、関係の改善を図った。長男エイリークとアレクサンダー3世の娘マルガレットの縁組みが、その最初の一歩だった。
内政では、国王の権力を強めるため、立法の権限を中央に集めようとした。そのため議会としばしば対立しながら、数多くの法の改正を進めた。まず古い地方ごとの法を見直し、続いて全国に通じる新しい法を整えた。1273年には、当時5歳だった長男エイリークに公子の称号を、次男ホーコンに公爵の称号を与えている。全国法は1274年に各地の集会で承認され、1276年にはその補足として都市法が定められた。新しい法は、アイスランドやフェロー諸島にも適用された。犯罪は個人だけでなく国家への害とされ、罰するのは国家の役目とされたため、そのぶん私的な復讐は減った。都市法は、都市に農村の支配から離れた自由を与えた。王位の継承については、嫡出であることと長子相続を重んじ、王に後継者がない場合は貴族と聖職者の選挙で王を選ぶとも定めた。
こうした改革が教会との争いを呼んだ。ニダロスの大司教ヨン・ラウデは、教会の法にまで王が手を入れることに抗議した。1277年のトンスベルク協約で両者は和解し、聖職者は法の上でより多くの特権を得る一方、ノルウェーが教会の最終的な権威のもとにある封土だという主張を取り下げた。北ドイツの商業都市は、ドイツの商人をノルウェー人と同等に扱う都市法に不満を示し、王は1278年から、彼らにある種の法的な免責を認めた。急ぎすぎた改革は議会をはじめ国民にも不評で、これが異名の背景にもあるとされる。
マグヌスは、1280年5月9日にベルゲンで亡くなった。王位は長男のエイリーク2世が継ぎ、1299年に没した後は、弟のホーコン5世が王となった。
同じ年に亡くなった人物
- ベルナト・ダスクロット (1280年)
- Theodora of Arta (1280年)
- ヤコポ・コンタリーニ (1280年)
- ニコラ・ピサーノ (1280年代没)
- ヨランド2世 (ヌヴェール女伯) (1280年没)
同じ地域に関係する人物
- イスダルの女 (1970年没)
- ミハエル・サーシュ (1869年没)
- Sigurd Jorgensen (1929年没)
- ハーラル4世 (ノルウェー王) (1136年没)
- Wollert Konow (1924年没)