伝記
トーマス・クレイトン・ウルフは、1900年10月3日に生まれ、1938年9月15日に没した、20世紀初頭のアメリカ合衆国の作家である。トマス・ウルフと表記されることもある。4本の長編小説のほか、複数の短編や戯曲、中編を書き、その作風は自伝的で、感じたままを叙情的に書き上げるものであった。存命中は広く知られた作家で、没後、同時代のウィリアム・フォークナーは、ウルフは自分たちの時代で最も才能ある人物だったかもしれないと述べた。
ノースカロライナ州アシュビルで、石工として成功し墓石業を営んだ父ウィリアムと、下宿を営み不動産取得に熱心だった母ジュリアの間に、8人きょうだいの末っ子として生まれた。親しい間柄では、トムと呼ばれた。1904年に母がセントルイス万国博覧会に合わせて同地に下宿屋を開いたとき、12歳の兄グローヴァーが腸チフスで亡くなった。1906年、母はアシュビルの下宿屋「オールド・ケンタッキー・ホーム」を買い取り、他の家族を別の家に残して、末息子の彼とふたりで暮らし始めた。彼は1916年に大学へ進むまでそこで暮らした。きょうだいで最も親しかった兄ベンの26歳での早世は、のちに小説に描かれた。学校で出会った教師マーガレット・ロバーツは、作家になりたいという彼の夢を後押しした。
ノースカロライナ大学チャペルヒル校に進み、学生新聞の編集に携わり、エッセイでワース賞を得た。脚本家を志して1919年に脚本家のコースに参加し、一幕劇を書いて自ら主役を演じている。1920年に学士号を取得し、同年9月にハーバード大学に入って脚本を学び、1922年に修士号を得た。この年の6月に父がアシュビルで亡くなり、このことは彼の執筆に大きな影響を与えた。1924年2月からはニューヨーク大学で英語の講師として、断続的に7年ほど働いた。しかし彼の脚本は軒並み大長編で、3年間1作も売れなかったため、自分の作風は舞台より小説に向いていると悟り、1924年10月にヨーロッパへ向かった。
1925年10月にアメリカへ戻る船上で、シアター・ギルドの舞台演出家バーンスタインと出会って恋に落ち、5年間の不倫関係を続けた。彼女は彼の執筆を励まし、金銭面でも支えた。身長は6フィート6インチの長身で、冷蔵庫を台にして立ったまま原稿を書くのが常だった。1926年夏にヨーロッパへ戻り、アシュビルでの青春期を元に『失われしもの』の最初の版を書き上げた。原稿は1,100ページ超・33万3,000語の大作で、文学エージェントを経て、スクリブナー社の編集者マックス・パーキンズに渡った。パーキンズの勧めで6万6,000語あまりが削られ、題は『天使よ故郷を見よ』に改められて、大暴落直前の1929年9月に出版された。作中でアシュビルは「アルタモント」と名を変えていたが、モデルは明白で、自分を題材にされたと思った人々の心証を損ね、彼は故郷で爪弾きにされて、8年間帰省しなかった。
第2作の『時と川について』は、巨大な叙事詩を、パーキンズが大きくカットして1935年に出版した。処女作より商業的に成功し、彼はパーキンズへの献辞を付けた。だが同年の最初の短編集が酷評を受け、彼は周囲に当たり散らすようになった。1936年11月12日、ウルフはスクリブナー社との契約解除を手紙で申し入れ、社もそれを了承した。ドイツで作品が人気となり多くの友人を作ったが、1936年にユダヤ人への差別事件を目撃して考えを改め、その後ドイツで発禁処分となり、渡航も禁じられた。
同じ年に亡くなった人物
- ヤコフ・ユロフスキー (1938年没)
- ロバート・ジョンソン (1938年没)
- ジョルジュ・メリエス (1938年没)
- ロベルト・ヴィーネ (1938年没)
- トム・クリーン (1938年没)
同じ地域に関係する人物
- ジム・バーンズ (2002年没)
- モンゴメリー・ブレア (1883年没)
- フランク・J・フレッチャー (1973年没)
- ムハンマド・ハーン・ジュネージョー (1993年没)
- マーガレット・テイラー (1852年没)