伝記
トライデニスは、1220年ごろに生まれたリトアニア大公である。出自ははっきりしない。『ベラルーシ=リトアニア年代記』の伝説では、ロマナスの息子で、兄弟にダウマンタスらがいたとされる。アウクシュタイティヤの出身で、大公になる前はケルナヴェの公だった。1263年にミンダウガス王が暗殺されたのち、リトアニアは7年ほど混乱した。ミンダウガスの子ヴァイシュヴィルカスは、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国の軍に頼って権力を握り、その諸公と支配を分け合った。トライデニスは、正教徒の君主がルーシの正教徒の軍に頼って治めることを、リトアニアの多神教の伝統への脅威とみなし、自ら王位を求めた。1267年の終わり、ヴァイシュヴィルカスはハールィチの公シュヴァルンの弟レーヴに殺された。トライデニスが示し合わせていたかは分からない。1268年には、ヴァシリコと戦い、3人の兄弟を失ったが、ヴァシリコは敗れて死に、その領地はリトアニアに戻った。
1270年にリトアニア大公の地位に就いたトライデニスは、分離しようとするナヴァフルダク、ガラドク、ポラツクの諸侯国と戦った。同じ年、サーレマー島近くの氷上でのカルーゼの戦いに勝ち、リヴォニア騎士団の総長オットー・フォン・ルッテルベルクを討ち取った。後任のアンドレアス・フォン・ヴェストファーレンも、トライデニスに殺された。1273年ごろ、騎士団の抑圧を受けていたヨトヴィング人やプロイセン人の一部はリトアニアに逃れてきた。同じ年、リヴォニア騎士団はダウガフピルスにディナブルグ城を築いた。1274年、トライデニスはハールィチ・ヴォルィーニ大公レーヴ・ダヌィーロヴィチのドロヒチンに親兵を送り、都市は占領された。1275年、レーヴはその報復のため、タタールのモンケ・テムルに援助を求めた。ヤグルチンを司令官とする軍が送られ、ロシアの諸侯もその配下に入った。しかし、遠征軍は意見が合わず、ナヴァフルダクの周辺に着いただけでリトアニアを去った。1277年には、4つの巨大な攻城機で4週間にわたりディナブルグを包囲したが、落とせなかった。
1278年の終わり、トライデニスは兄弟で代官のシルプティスを軍とともにヨトヴィング人のもとへ送り、軍はルブリン一帯にまで達した。マゾフシェ公はドイツ騎士団との関係を絶って和平を請うた。1279年1月、リヴォニア騎士団はリトアニアの奥深くまで攻め入り、ケルナヴェを包囲したが、2月には引き揚げた。トライデニスは軍勢を集めて追い、3月5日にアイズクラウクレで追いついた。リトアニア軍が逃げるふりをすると、騎士団のデンマーク人部隊は追撃したが、追いつけずに戻った。そのときには、残された騎士団はすでに叩きのめされており、部隊自身も罠にはまってほとんどが殲滅された。この戦いで騎士団の総長と71人の団員が討ち取られた。
この勝利は、マゾフシェとの和平と同盟を固めた。同年、マゾフシェ公ボレスワフ2世がトライデニスの娘ガウデムンダと結婚した。1280年にはアウクシュタイティヤを最終的に併合し、1281年にはエリスカ地区を掌握して、ダウガフピルスをリヴォニアから孤立させた。1282年、トライデニスはストゥマンダスとギルドゼラという2人の傭兵に殺された。2人はドイツ騎士団領へ逃げた。リトアニアを追われた公ポリュスが密かに送り込んだとする憶測がある。一方で、兄弟で、のち大公となるダウマンタスが送った6人の刺客に殺されたともいわれる。敵側からは猛獣というあだ名で呼ばれた。ドイツ騎士団などとの不屈の戦いを続け、大公国の国境線を大きく広げた。
同じ年に亡くなった人物
- ブカ・テムル (1282年)
- 日蓮 (1282年没)
- ロベール4世 (ドルー伯) (1282年没)
- マルグレーテ・サンビリア (1282年没)
- アバカ (1282年没)
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