HISTORICAL PERSON · 1282年没

アバカ

イルハン朝第2代イルハン。父フレグの死後即位し、ジョチ・ウルスのノガイやベルケの侵攻を退けた。東ローマ皇帝の娘マリアを妃に迎え婚姻同盟を結んだ。

生涯
1282年没
死亡地
イラン共和国(ハマダーン州 / ハマダーン)
出生地
モンゴル帝国
出典
世界地図
イラン共和国(ハマダーン州)

伝記

アバカは、イルハン朝の第2代イルハンである。1234年2月27日に、初代イルハンのフレグの長男として生まれた。母は、フレグの第5位の妃でスルドゥス部族出身のイェスンジン・ハトゥンである。1253年、モンケ・カアンによって父が西方遠征軍の司令に任じられると、弟のヨシムトらとともに遠征に従った。1264年には、フレグからイラクやマーザンダラーン、アム川に至るホラーサーンの各州の統治を委ねられた。

1265年2月8日にフレグがジャガトゥ河畔の冬営地で亡くなると、マーザンダラーンで冬営していたアバカのもとへ急使が送られた。慣例によって、王宮から四方への道はすべて封鎖された。1週間ほどして、弟のヨシムトも王宮に来て諸将の意向を探ったが、後継者となる見込みがないと知って引き返した。アバカは3月9日にジャガトゥの大オルドに着き、親族の王侯や将軍たちに迎えられた。人々は、フレグが長子のアバカを後継者に指名していたと証言した。アバカは慣例に従って位に就くのを辞退し、弟たちのいずれかに譲ろうとしたが、弟たちは固辞した。伯父のクビライ・カアンの命令なしには即位できないと言うアバカに、居並ぶ者たちが、国家の慣習や法令を誰よりもよく知るのはアバカ以外にいないと叫んだ。こうして6月19日、バラーハーン地方のチャガン・ナウルで即位式が行われた。31歳だった。親族の王侯たちは順に、太陽に向かって7回ひざまずいた。

即位後もアバカは、クビライの勅命が下るまで玉座に座らず、腰掛けにしか座らなかった。まずフレグの出した法令をすべて追認し、そのうえで国内の行政権を割り当てた。デルベントからアラタクに至る辺境の防衛は弟のヨシムトに、ホラーサーンとマーザンダラーンは弟のトブシンに任せ、バグダードとファールスはスウンジャクに管轄させた。ジョージア王ダヴィトらの地位も改めて認めた。宮廷の学者百余人にも恩寵を施した。フレグがビザンツ帝国の王女に求婚していた縁で、皇帝ミカエル8世は庶出の娘マリアを送り込んだ。マリアは到着の途上でフレグの死を知ったが、そのままアバカの宮廷に向かい、結婚した。モンゴル人は彼女を「デスピナ」と呼んだ。

1266年の春、アバカがタブリーズに赴いたころ、ジョチ・ウルスのノガイがデルベントの関を越えて侵入した。ヨシムトが迎え撃ち、ノガイは目に傷を負って退いた。アバカも自らクル川を渡ったが、ベルケ・ハンの大軍が迫ると聞いて橋を切り落とし、南岸に陣を張った。両軍は川を挟み、2週間にわたって矢を射合った。やがてベルケが川を遡る途中で死ぬと、その軍は退却した。アバカが東方の脅威に備えるあいだ、西方の守りは手薄になり、マムルーク朝のバイバルスが1265年から翌年にかけて十字軍の諸都市を奪い、キリキア・アルメニア王国へも兵を送った。国王ヘトゥム1世は何度も救援を求めたが、アバカは東方の対応に追われ、応じられなかった。1267年に母イェスンジン・ハトゥンがモンゴル本土から着くと、アバカは出迎えに赴き、フレグの寡婦たちに領地を与えた。

1269年、ヘトゥム1世は老齢を理由に、王位を王子レヴォンに譲る許可を得た。同じ年、東方では、チャガタイ家のバラクとオゴデイ家のカイドゥらがタラスで和議を結び、バラクにイルハン朝領のホラーサーンを攻めるよう促した。1270年に侵攻したバラクの軍に、アバカの弟トブシンは敗れたが、アバカは自ら出陣した。やがて戦場を選ばせたうえ、捕らえた間諜を逆に使って敵を欺く策を思いついたという。アバカは1282年4月1日に世を去った。

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