伝記
ペドロ3世は、1239年に生まれ、1285年11月11日に没したアラゴン王、バレンシア王、バルセロナ伯で、在位は1276年から1285年、1282年からはシチリア王も兼ねた。征服王ハイメ1世と、二番目の妃でハンガリー王アンドラーシュ2世の王女ビオランテの長男であり、大王と呼ばれる。アラゴン王国最大の君主のひとりとされる。弟にのちのマヨルカ王ジャウメ2世がいる。
1262年6月、シチリア王マンフレーディの娘で、シチリア王国の相続人であるコンスタンサと結婚した。青年期には、父がイスラム教徒に対するレコンキスタの過程で行った数々の戦争で、多くの軍事経験を積んだ。1276年に父が没すると、領土は分割され、ペドロにはアラゴンとバレンシア、カタルーニャの大部分が、次男のハイメにはバレアレス諸島や北カタルーニャなどが与えられた。同年11月、サラゴサで戴冠し、祖父ペドロ2世が教皇に対して負っていた封建的義務を放棄した。
即位後、まずバレンシアの鎮圧に当たったが、カタルーニャでは貴族の反乱が起こった。父王が商取引を盛んに行った相手でもあったフォア伯らが扇動したもので、ペドロ3世が彼らの特権を認めなかったため、憎しみが募ったという。1280年にはバラゲールを1か月間包囲して反乱軍を破り、指導者の大半は1281年までリェイダで投獄され、フォア伯ルジェ=ベルナルド3世は1284年まで投獄された。国外では、チュニジアのハフス朝が1277年の君主の死を機にアラゴンの宗主権を拒んだため、1280年に遠征隊を送り、1281年には自ら140隻の艦隊と1万5千人の兵を率いて出港した。
1282年3月30日にシチリアの晩祷事件が起こると、シチリア側の使節が、アンジュー家のカルロ1世の王座を奪うよう彼に求めた。ペドロ3世は、妃コンスタンサがマンフレーディの王女であるため、その相続人でもあった。この間にイタリア人医師ジョヴァンニが教皇ニコラウス3世の同意を取り付けるなど奔走したが、その間に教皇はフランス人のマルティヌス4世に代わり、彼はカルロ1世の忠実な同盟者だった。1282年8月30日にトラーパニから上陸し、9月4日にパレルモでシチリア王を宣言した。カルロ1世は本土へ逃れ、ナポリ王国を建てた。教皇はペドロ3世を破門した。1283年2月には、カラブリアの海岸線の大半も奪った。カルロ1世は決闘での決着を求め、ボルドーでの決闘が決まったが、実際には行われず、ペドロは変装してフランスに入った後にアラゴンへ戻った。
1283年には、弟ジャウメ2世がフランスに寝返った。1284年、教皇マルティヌス4世はアラゴンをフランス王子ヴァロワ伯シャルルに与え、征服の戦争を認めた。1284年から、フランス王フィリップ3世とシャルルが率いる軍が進軍した。これがアラゴン十字軍である。フランス軍は1285年にジローナを陥落させたが、9月にルッジェーロ・ディ・ラウリーア将軍の連合軍に敗れ、赤痢にも苦しんだ。フィリップ3世は10月5日にペルピニャンで病死した。
ペドロ3世自身も1285年11月11日にビラフランカ・ダル・パナデスで死去した。死因は不明で、宿敵の死からわずか1か月後だった。長男アルフォンソ3世がアラゴンを継ぎ、次男ハイメがシチリア王となった。三男フェデリーコは、のちにシチリア王となっている。ペドロ3世は父と同じく芸術と文学の庇護者で、自らもトルバドゥール(叙情詩人)として詩を書き遺し、ダンテの『神曲』にも登場する。
同じ年に亡くなった人物
- フランチェスカ・ダ・リミニ (1285年没)
- フィリッポ1世・ディ・サヴォイア (1285年没)
- Ibn Bibi (1285年)
- クンフタ・ウヘルスカー (1285年没)
- カルロ1世 (シチリア王) (1285年没)
同じ地域に関係する人物
- Joan Salvat-Papasseit (1924年没)
- コンスタンサ・デ・シシリア (1302年没)
- ホセ・ルイ・セルト (1983年没)
- リカルド・サモラ (1978年没)
- ベルナト・マルトレル (1452年没)