伝記
アブー・ユースフ・ヤアクーブは、モロッコを支配したマリーン朝の君主である。創始者アブドゥル・ハックの4男で、母はゼナタ族の女性だった。在位中の事績から「戦闘王」「建築王」「敬虔王」と称される。1258年7月に兄のアブー・ヤヒヤが亡くなったとき、彼はタザの総督だった。アブー・ヤヒヤは自分の息子を後継者に決めていたが、ヤアクーブはさほど苦労せず甥を退け、マリーン朝の君主として認められた。在位の始まりは1259年とする記述もある。当時、マリーン朝は1210年代からムワッヒド朝と覇権を争っており、フェズを押さえて東部と北部を支配していたが、ムワッヒド朝は都マラケシュのまわりの南部に追い詰められていた。
1260年9月、おそらくカスティーリャのものとみられるキリスト教側の艦隊が大西洋岸に上陸して不意に襲い、サレの町を奪った。ヤアクーブは14日間の包囲の末にこれを取り戻した。マリーン朝とイベリア半島のキリスト教勢力との、最初の直接の衝突とされる。ヤアクーブは報復の遠征をせず、南のムワッヒド朝の抵抗を削ることに力を注いだ。1262年にマラケシュを包囲したが攻め落とせず、方針を変えて、ムワッヒド朝の反乱者アブー・ダッブースを助けた。ところが1266年にマラケシュを手に入れたアブー・ダッブースは約束を破って引き渡さず、トレムセン王国のヤグモラサンをそそのかして北東からマリーン朝の領内へ攻め込ませた。ヤアクーブは1268年、ムルーヤ川のほとりの戦いでトレムセン軍を破り、すぐに南へ戻ってアブー・ダッブースの軍を破った。1269年9月8日にマラケシュへ入り、ムワッヒド朝を完全に滅ぼした。ヤアクーブは「ムスリムたちの君主」という称号を用い、カリフを名乗ることは、不敬な野心であるとして避けた。首都はマラケシュに移さず、フェズに置いた。
その後は、各地の服従を固めていった。ドラア渓谷のアラブ人は、1271年の遠征ののちに従った。こうした抵抗はトレムセンのヤグモラサンが後押ししていたため、1272年に懲罰の遠征を行って町を一時包囲し、和平に応じさせ、沿岸にタウントの砦を築いた。セウタとタンジェは1273年に、シジルマサは1274年に従った。1274年のシジルマサ攻めは、火薬を使う大砲が包囲に用いられた最初期の例の一つらしい。
イベリア半島では、グラナダのナスル朝が内乱に苦しんでいた。1272年、ムハンマド1世が援助を求めたが、ヤアクーブはトレムセンとの戦いのために応じられなかった。1274年、子のムハンマド2世がふたたび援助を求め、タリファやアルヘシラスを渡すと申し出た。1275年4月、ヤアクーブは海峡を渡って大軍を上陸させ、タリファとアルヘシラスを奪って、ムハンマド2世との協定を確かめた。同年9月7日、マリーン朝とナスル朝の連合軍はエシハでカスティーリャ軍を破り、国王アルフォンソ10世の義兄弟であるトレド大司教サンチョが戦死した。1276年には、首都フェズに新市街フェズ・ル・バリを築き、王宮や宗教施設を建てた。1282年には、王子サンチョの反乱で領土の半分を失ったアルフォンソ10世が助けを求め、ヤアクーブは応じて援軍を送り、コルドバで王子サンチョを包囲した。1283年にシエラ・モレーナ山脈の北を攻め、1285年には下アンダルシアを略奪してヘレスを包囲したが、失敗に終わった。同年、カスティーリャにイベリア半島のイスラム教国への不干渉とアラビア語の写本の返還を求め、講和を結んだ。ヤアクーブは1286年3月20日に亡くなり、子のアブー・ヤアクーブ・ユースフが跡を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- Gurcu Hatun (1286年没)
- チンキム (1286年没)
- ムールベケのグイレルムス (1286年)
- アレグザンダー3世 (スコットランド王) (1286年没)
- エーリク5世 (デンマーク王) (1286年没)
同じ地域に関係する人物
- フランシスコ・デ・ミランダ (1816年没)
- パスクワル・セルベラ (1909年没)
- ホセ・デ・ラ・セルナ (1832年没)
- ロデリック (西ゴート王) (710年代没)
- アントワーヌ・ドルレアン (モンパンシエ公) (1890年没)