HISTORICAL PERSON · 1286年没

アレグザンダー3世 (スコットランド王)

7歳でスコットランド王となり、1255年に親政を始めた。1263年にノルウェー王ホーコン4世を破り、1266年の条約でヘブリディーズ諸島を領有した。黄金時代を築いたが、1286年に落馬事故で死去した。

生涯
1286年没
死亡地
イギリス連邦(ファイフ)
出生地
イギリス連邦(ロクスバラ)
出典
世界地図
イギリス連邦(ファイフ)

伝記

アレグザンダー3世は、1241年9月4日に生まれ、1286年3月19日に没したスコットランド王で、在位は1249年から1286年までである。父アレグザンダー2世と、二度目の王妃マリー・ド・クシーの一人息子で、ボーダーズ地方のロクスバラで生まれた。1249年に父が没したため、同年7月13日にスクーンで戴冠し、7歳で王位を継いだ。

少年王の時代は、権力の掌握をめぐって二つの貴族の党派が激しく争い、その一方が初めのうちの政治を主導したとされる。1251年12月26日、10歳の彼はイングランド王ヘンリー3世の娘で11歳のマーガレットと結婚した。この縁組はヘンリー3世の押しつけであり、ヘンリー3世はこの機会に、アレグザンダーをナイトに叙した上で臣従を強要した。宮廷では、摂政のジョン・ベイリャルと王妃護衛職のロバート・ド・ロスが王妃をないがしろにするなど専横を極めたとされ、1255年、アレグザンダーは親政に乗り出して二人を追放した。一方で、イングランドの内乱には深入りせず、良好な関係の維持に努めた。

1262年に21歳で成人した彼は、父が果たせなかったヘブリディーズ諸島の奪還に取り組んだ。ノルウェー王ホーコン4世に正式に請求したが、拒まれたため、ホーコンは翌年、大艦隊を率いて侵攻した。ホーコンはアラン島に停泊して交渉に入ったが、アレグザンダーは巧みに会談を引き延ばし、秋の嵐の季節を待ったという。しびれを切らしたホーコンが攻撃すると、暴風雨で船が大きく損なわれた。1263年10月2日のラーグスの戦いは決着がつかなかったが、ホーコンは絶望的な立場に陥り、帰国の途上、オークニー諸島で同年12月に没した。1266年、ホーコンの後継者マグヌスとの間でパース条約が結ばれ、ヘブリディーズ諸島とマン島は金銭の支払いと引き換えにスコットランド領となった。

しかし晩年は、家族の不幸に見舞われた。1281年から1284年にかけて、次男デイヴィッド、長女マーガレット、長男アレグザンダーが相次いで亡くなり、長男は1282年11月14日にロクスバラでフランドル伯ギーの娘マルグリットと結婚していたが、子はなかった。妃マーガレットも1275年に先立っていた。1284年、彼は議会に、孫娘であるノルウェーの少女マルグレーテを推定相続人として認めさせた。それでも男子の後継者が必要だったため、1285年秋にフランス貴族ドルー伯ロベール4世の娘ヨランド・ド・ドルーと再婚した。

その半年後の1286年3月19日、エディンバラ城で再婚を祝い、会議を終えて、王妃のいるキングホーンへ向かう途中、嵐の中で馬から落ち、翌朝、海岸近くで首を折った遺体となって見つかった。翌日が王妃の誕生日だったためとされ、天候を理由に止める者が何人もいたが、聞き入れず、フォース湾を渡ってインヴァーキーシングに着いた後も、泊まるよう勧める貴族や町の者の声を退けて先へ進んだという。馬が暗闇で足を踏み外したものと推測されている。貴族らは孫娘のマルグレーテを、ノルウェー宮廷にとどめたまま女王に擁立した。彼の時代は、イングランドとの関係が良好で、国内は安定し、国民生活が向上したため、後世「黄金時代」と呼ばれた。

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