HISTORICAL PERSON · 1287年没

ホノリウス4世 (ローマ教皇)

ローマ貴族出身の教皇で、1285年に全会一致で選ばれた。シチリア晩祷戦争でアンジュー家を支持してシチリア王ジャコモ1世を破門したが失敗し、ルドルフ1世の皇帝戴冠も実現しなかった。

生涯
1287年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ホノリウス4世は、1210年ごろに生まれ、1287年4月3日に没した中世のローマ教皇で、在位は1285年から1287年である。本名はジャコモ・サヴェッリという。ローマの富裕で有力なサヴェッリ家の出身で、ホノリウス3世の兄弟の孫にあたる。父ルーカはローマの元老院議員で、母ジョヴァンナはアルドブランデスキ家に属した。パリ大学で学び、シャロンの司教座聖堂参事会員となり、のちにイングランドの教会の聖職禄も与えられたが、その国を訪れたことはなかったという。

1261年、ウルバヌス4世によりサンタ・マリア・イン・コスメディン教会の助祭枢機卿に任命され、同時に教皇領軍の指揮官にもなった。以後は外交面で活動し、1265年7月28日には、クレメンス4世が選んだ枢機卿4名の1人として、シャルル・ダンジューのシチリア王戴冠式を執り行った。クレメンス4世の没後、長引いたコンクラーヴェの末に、1271年9月1日に妥協としてグレゴリウス10世を選んだ6名の枢機卿にも加わった。1274年の第2リヨン公会議にはグレゴリウス10世に同伴し、1276年7月にはハドリアヌス5世が派遣した3名の枢機卿の1人として、ローマ王ルドルフ1世の皇帝戴冠式の日取りを折衝したが、教皇の急死で決まらなかった。

1285年3月にマルティヌス4世が没すると、枢機卿団はペルージャに集まり、4月2日のコンクラーヴェで、1回目の投票でサヴェッリが全会一致で選ばれ、ホノリウス4世を名乗った。決着が早かったのは、シチリア晩祷戦争のために聖座の空位が望まれず、外国の干渉を避けようとしたためと説明される。5月19日に司祭に叙階され、20日にローマ司教に任命されてサン・ピエトロ大聖堂で戴冠した。老齢で痛風がひどく、立つことも歩くこともできず、ミサでは腰掛けに座り、聖体を高く掲げる場面では手を持ち上げる仕掛けを使ったという。

最大の課題はシチリア情勢だった。前任者は住民とアラゴン王ペドロ3世を破門し、アラゴン王位をフランス王子ヴァロワ伯シャルルに与えていた。1285年1月にシャルル・ダンジューが没し、捕虜となっていたサレルノ公が継承者となった。ホノリウス4世は前任者より穏やかだったと評されたが、破門やアラゴン王位への処置は撤回せず、アンジュー家支持を保った。ただし、シャルルの圧政は認めず、同年9月にはシチリアの民を国王や役人から守る四十五の条項を定めた。1285年11月にペドロ3世が没すると、次男ジャコモが1286年2月にシチリア王として戴冠したため、教皇は4月11日にジャコモと戴冠式に参加した司教たちを破門した。しかし彼らは意に介さず、ジャコモは艦隊をローマ沖に派遣して沿岸を焼き討ちにした。1287年2月、サレルノ公は釈放と引き換えにシチリア王位継承権をジャコモに譲ったが、教皇はこれを無効と宣言し、実効はなかった。

ルドルフ1世の戴冠の交渉も再開し、1287年2月2日に戴冠式を行うことが決まったが、延期され、結局実現しなかった。ドミニコ会とフランシスコ会を強く支持して特権を強め、その会士を司教に任命した。アウグスチノ会とカルメル会にも特権を与えた。パリ大学には、イスラム教徒の改宗と東西教会の合同を目指して東方諸語の学習を推進させた。1287年4月3日にローマで死去し、サン・ピエトロ大聖堂に葬られた。のち16世紀にパウルス3世によって、ローマの教会の母の隣に改葬された。

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