伝記
レシェク2世は、1241年に生まれたポーランドの王族で、ピャスト家の一員である。クヤヴィ公カジミェシュ1世と、シロンスク公ヘンリク2世の娘コンスタンツィヤとの間の長男とされる。黒公の呼び名は14世紀の年代記に初めて現れ、おそらく黒い髪にちなんで付けられたといわれる。1257年に母が亡くなると、父はまもなくオポーレ公カジミェシュ1世の娘エウフロジナと再婚した。継母は自分の子らのために領地を得ようとして家中に争いを起こし、その最年長の子が、のちのポーランド王ヴワディスワフ1世である。継母がレシェクと弟を毒殺しようとしたと書く年代記もある。1260年にはボヘミア王国に対する遠征の場で、クラクフとサンドミェシュを治めるボレスワフ5世と初めて顔を合わせた。
1261年、レシェクは父と継母に対して反乱を起こした。地元の貴族が冒険的な政策に不満で支持を引いたため当初は失敗したが、ボレスワフ5世、マゾフシェ公シェモヴィト1世、ボレスワフ敬虔公との同盟に助けられ、父にシェラツ地方を独立した公領として与えさせた。シェラツは人口の少ない土地だったが、レシェクはノヴァ・ブジェズニツァ、ルトミェルスク、ヴォルブシュ、ラドムスコといった町を築いて入植を進め、教会とも協力して地域の姿を少しずつ変えていった。1265年にはクラクフとサンドミェシュを治めるボレスワフ5世の養子とする文書が出され、同じ年にスラヴォニア公ロスティスラフの娘グリフィナ(アグリッピナ)と結婚した。1267年に父が没すると、五人の息子が領地を分け、長男のレシェクはウェンチツァを加えた。
1271年、グリフィナはクラクフへ逃げ、夫が不能であると公然と訴えるという騒動が起きた。養子縁組を認めないオポーレ公ヴワディスワフは1273年にクラクフへ遠征し、6月4日のボグチン・マウィの戦いで敗れた。同じ1273年、レシェクはボレスワフ敬虔公からイノヴロツワフ公領を与えられた。1275年8月6日、ボレスワフ5世とその妻キンガの仲裁でグリフィナは夫のもとに戻った。レシェクは名医として知られるクラクフのミコワイの治療を受け、処方にはカエルやヘビを食べることも含まれていたという。年代記は、子がないことが国民のあいだに大きな嫌悪を生んだためだと記す。結局、二人に子は生まれなかった。1278年8月24日、レシェクはロンドでの会談で、ヴィエルコポルスカ公プシェミスウ2世の仲介を得て、イノヴロツワフ公領を弟に返した。
1279年12月7日にボレスワフ5世が子のないまま没し、遺志のとおりクラクフとサンドミェシュはレシェクが継ぎ、ポーランド大公となった。継承は大きな混乱なく進んだが、形式上は選挙での承認を求められた可能性が高いといわれる。治世の初めは平穏ではなく、ハリチ公レフ1世がボヘミア王ヴァーツラフ2世の助けを得てクラクフ侵攻を計画し、リトアニア人やタタール人、ルーシのいくつかの公国の力も借りてルブリンに攻め入った。治世中にはヴロツワフ公ヘンリク4世との紛争も起き、1287年にはノガイ率いるモンゴルによる3度目のポーランド襲来があった。レシェクは1288年9月30日に没した。子がなかったため、異母弟ヴワディスワフ1世とヘンリク4世が後継を争い、ヘンリク4世が大公位を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ルドルフ1世 (1288年)
- ゲルトルート・フォン・バーベンベルク (1288年)
- ハインリヒ6世 (ルクセンブルク伯) (1288年没)
- アダン・ド・ラ・アル (1288年)
- メヒティルト・フォン・ホルシュタイン (1288年没)
同じ地域に関係する人物
- ファウスティナ・コヴァルスカ (1938年没)
- エリーザベト・フォン・ハプスブルク (1505年没)
- ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ (2001年没)
- バルバラ・ヤニシェフスカ (2000年没)
- マキシミリアノ・コルベ (1941年没)