HISTORICAL PERSON · 1939年没

アントン・マカレンコ

ソビエト時代のロシアの教育者。非行少年の矯正施設「ゴーリキー記念コムーナ」などで院長を務め、ユネスコ選出の20世紀の影響力ある教育者4人の一人。

生涯
1939年没
死亡地
ロシア連邦(モスクワ州 / Golitsyno)
出生地
ウクライナ(ビロピリア)
出典
世界地図
ロシア連邦(モスクワ州)

伝記

アントン・セミョーノヴィチ・マカレンコは、1888年3月1日、ロシア帝国領ウクライナのベロポーリェ(ハルキウ県)で生まれた教育者である。父セミョーン・グリゴーリエヴィチは鉄道工場の塗装工で、一家の第二子として生まれた。生まれたときは病弱だったが、成長とともに丈夫になり、5歳でもう読み書きを覚えていたという。母は父と違って楽天的で快活な女性で、家庭に生き生きとした雰囲気をもたらした。マカレンコはのちにその雰囲気を著作で「長調」と呼んでいる。1895年、7歳で初等学校に入り、1900年に父が鉄道の仕事を得てクリューコフへ移ると、クレメンチュグの町の学校に転じて6年間学んだ。上級に進めない学校だったが、彼は独学を続けて、ロシアや外国の古典のほか、哲学、天文学、自然科学の知識も深めていたとされる。

1904年、16歳で学校を優秀な成績で終え、農村や労働者地区の幼い子らを教える教員を養成する1年制の教育課程に進んだ。1905年春に課程を終え、秋から父の働く鉄道工場の敷地にある小学校の教師になった。知識が豊かで教え方もうまかったが、子どもたちには敬遠されたという。ある学期末に、児童の平均点を計算して順位表を貼り出したところ、最下位だった生徒が結核を患っていて成績が悪かったことを後で知り、深く落ち込む様子に衝撃を受けた。この出来事から、よい教師であるだけでなく一人ひとりの事情を理解して影響を与える必要があると悟り、教育への関心を持つようになったとされる。1905年の革命の影響もあり、同僚とともに革命派の新聞を購読し、仲間と学問や政治を語り合う集まりも生まれた。地方の師範学校を経て小学校の教員となり、十月革命が起きた1917年に高等師範学校を卒業して視学官の職を得た。

1920年、ポルタヴァ近郊の、非行少年を収容して勤労を通じて矯正教育を行う少年院の院長となった。1922年にこの施設はゴーリキーの名を冠して「ゴーリキー記念コムーナ」と改称された。1926年にコムーナはハルキウ付近の修道院跡地へ移転したが、指導方針の違いから役職を辞し、兼任していたハルキウ近郊のジェルジンスキー・コムーナでの矯正教育に専念した。ここでの活動から、集団主義教育の実践が生まれた。当時世界に広まっていた、子どもの自発性や個性に注目する新教育運動とは一線を画し、集団の中での忠誠、服従、協同に重きを置いた。1935年までこのコムーナに勤め、その後キエフを経て1937年にモスクワへ移り、体験を著作として次々に世に送った。

著作の大半は教育小説の形をとり、『教育詩』『塔の上の旗』『親のための本』などがある。生前、教育論はあまり高く評価されなかったが、1931年に彼の著作から着想を得た映画「人生案内」がつくられて大きな反響を呼び、翌年に日本でも公開された。ナデジダ・クルプスカヤと並んで、ソビエトの集団主義教育を体系化した人物と評され、ユネスコが選ぶ20世紀で最も影響力のある教育者4人の一人に選ばれた。日本でも1970年代に彼の理論の影響を受けた「学級集団づくり」が、一部の教員の間で流行した。1939年4月1日に没した。

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