伝記
ヨーゼフ・ロートは、1894年9月2日、オーストリア=ハンガリー帝国領ガリツィア東部、ロシア国境に近いブロディ(現在のウクライナ)に、ユダヤ人の両親のひとり息子として生まれた作家である。穀物商だった父は商用旅行中に精神を病み、母は生家に戻ってロートを産んだ。多様な民族が住むこの町で、7歳からユダヤ人教区学校に通い、1905年からはドイツ系のギムナジウムに進んでドイツ語に習熟し、ドイツ系の作家を志した。文系の学科で傑出した才能を示し、1913年に首席で卒業した。地元の大学に入ったが、ポーランド独立運動の拠点で講義もポーランド語だったため馴染めず、同年ウィーンに出てドイツ文学を学び、詩や散文を書き始めた。
1914年に第一次世界大戦が始まると、友人とともに志願し、1916年に狙撃大隊に入った。同年11月の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の崩御では、国葬警備隊の一員となる。東部戦線で中尉として戦い、ロシア軍の捕虜になったと自ら語っていたが、実際は報道班員として勤務していたとみられている。戦後はウィーンで社会主義系の新聞の定期寄稿者となり、敗戦の社会問題を正面から論じるのではなく、ユーモアを交えた観察で「叙情的なフェユトニスト」と呼ばれた。帝国の敗戦について、全世界が戦争を制御できなかったのではなく、戦争そのもののゆえに世界を失ったと書いている。新聞は1年ほどで休刊となり、1920年に友人たちとベルリンへ移り、複数の新聞で活躍し始めた。ベルリンでの居住許可に問題を抱えると、牧師の友人が、ブロディ近郊のドイツ人入植地で生まれたとする洗礼証明書を与え、これでオーストリア国籍を取得できたという。
1922年にウィーンで、美しいユダヤ人女性フリーデリケ・ライヒラーと結婚した。1923年にはドイツの代表的な新聞の特派員となってヨーロッパ各地を巡り、紀行文やルポルタージュを寄稿し、訪問先のホテルやカフェで短編小説も書いた。同年、ナチス台頭の裏面を描く初の小説『蜘蛛の巣』を連載し、1924年には東部戦線の帰還兵を描いた『サヴォイ・ホテル』を発表した。1926年、ロシアを4か月旅行して社会主義に失望する。このころから妻は精神に異常をきたし、1928年以降は精神病院への入退院を繰り返した。その後に発表した『果てしなき逃走』(1927年)や『フィッパーとその父』(1928年)などで、「失われた世代」の作家の一人といわれた。1930年には『ヨブ』、1932年には、ハプスブルク帝国の没落をトロッタ家三代の歴史に重ねた『ラデツキー行進曲』を発表し、作家としての名を不朽のものとした。
ナチスが勢力を拡大した1932年、病気がちな妻をオーストリアに残してドイツを去り、パリへ亡命した。収入が途絶え、妻の療養費もかさんだため、友人シュテファン・ツヴァイクに多くを頼った。多民族国家の崩壊と民族主義の台頭に絶望を深め、次第に飲酒癖が進んで衰弱していった。1938年にはアンシュルスに反対するためウィーンへ赴き、帝国の復活を図ったが、なすすべなくパリに戻った。放浪と酒を愛した彼は、死の直前に自伝的な『聖なる酔っぱらいの伝説』(1939年)を書いた。
1939年、滞在先のホテルのカフェで倒れ、モンパルナスの救貧病院に入院した。譫妄状態となり肺炎も併発して、5月27日、44歳で亡くなった。入院から葬儀、墓地の費用までを友人たちの好意でまかなわれた。ツヴァイクは追悼の席で、ロートは緩慢な自殺を選んだと語った。妻フリーデリケは翌1940年、ナチスの遺伝病防止法のもとで殺害された。
同じ年に亡くなった人物
- グレイス・アボット (1939年没)
- ダグラス・フェアバンクス (1939年没)
- ウィリアム・バトラー・イェイツ (1939年没)
- スビ・バラカット (1939年没)
- 呉佩孚 (1939年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・ルルー (1871年没)
- アントワーヌ・ド・ジュシュー (1758年没)
- ジュール・バルベー・ドールヴィイ (1889年没)
- オラス・セバスティアニ (1851年没)
- ルネ・ドーマル (1944年没)