伝記
ウィリアム・ルブルックは、13世紀半ばにモンゴル帝国へ派遣された、フランスの宣教師で探検家、フランシスコ会の修道士である。フランス語ではギヨーム・リュブリキと呼ばれる。フランドル地方、現在のフランスのノール県の出身で、生年は1210年代か1220年代とされる。没年は不明で、1270年頃とする説や、1293年頃、1295年頃とする説がある。活動が確かめられるのは1248年から1255年ごろである。
派遣の背景には、モンゴルの脅威とキリスト教世界の思惑があった。モンゴル軍は1230年代から1240年代にかけてヨーロッパへ迫ったが、キリスト教世界は聖地の回復を優先し、モンゴルを潜在的な同盟者と見る向きもあった。ネストリウス派信者のモンゴル軍司令官イルチガタイがルイ9世に協力を提案したという逸話が、ルブルックの使命と結び付けて語られることがある。しかし実際にこの使者を務めたのは、ドミニコ会修道士アンドルーであるとされる。アンドルーは1249年に出発し、既に死去していたグユクの妃オグルガイミシュに謁見して1251年に帰国したが、返書は貢納を条件とする和平を高飛車に求めており、ルイ9世を失望させた。ルブルックの派遣は十字軍への協力要請ではなく、バトゥの息子サルタクがキリスト教徒だという噂が広まっていたことと、パリでルイ9世に会ったカルピニの話を聞いて、ルブルック自身がモンゴルでの布教に関心を持ったことによるとされる。
そこでルイ9世はサルタクへ宛てた書簡を託して、ルブルックを送り出した。一行は、クレモナのバーソロミュー修道士、聖職者ゴッセト、通訳アブドゥッラーとともに旅立った。1253年にコンスタンティノープルを発ち、南ロシアの草原の道を進んだ。サルタクは書簡を読むと、バトゥの判断を仰ぐよう指示し、バトゥはさらにモンケ汗に会うよう命じた。このため、旅の目的地は当初からカラコルムだったわけではない。翌1254年にカラコルムへ着いてモンケに謁見し、この地で滞在中にチベット仏教徒と神学論争も行った。モンケが書簡を持たせて帰国を命じたとき、ルブルックは、自分たちの務めは人々に神の御心のままに生きるよう教えることで、許されるなら喜んでとどまるつもりだったと答えている。使節というより、後のモンテコルヴィーノやオドリコに連なる、異教の地での伝道者だったと位置づけられる。
見聞をまとめた『東方諸国旅行記』は、モンゴルや中央アジアの地理、風俗、宗教、言語を伝える貴重な記録である。遊牧民の家について、細い棒で組んだ円形の木枠に白いフェルトを張り、フェルトを極彩色に染めることがあると記し、幅が30フィートに達する大きなものもあったという。車輪の直径を測ったところ20フィートあり、家を積んだ車を引く牛は一列に11頭が二列だったとも書いている。約10年前にカルピニが残したのは報告書で、旅行記にあたるのは最終章だけであり、カスピ海や黒海などを同一と見るなど地理の認識も不正確だった。これに対し、ルブルックの著述は半分近くを旅程が占め、カスピ海や黒海の認識も正確である。モンゴルの風俗に触れるのは全39章のうち7章にとどまる。後年のマルコ・ポーロやオドリコの旅行記のような奇談も、ほとんど見られない。
同じ年に亡くなった人物
- カラーウーン (1290年没)
- シャムスッディーン・カユーマルス (1290年没)
- アリックス (オセール女伯) (1290年没)
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同じ地域に関係する人物
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- ギュスターヴ・サンドラス (1951年没)
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- Robert Defosse (1973年没)
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