伝記
ペーター・ベーレンスは、1868年4月14日にハンブルクで生まれた、20世紀ドイツの建築家、デザイナーである。モダニズム建築や工業建築の分野の発展に多大な影響を与えた。1877年9月から1882年の復活祭までクリスティアネウムに通い、1886年から1889年にかけて、生まれ故郷のハンブルクのほかデュッセルドルフ、カールスルーエで絵画を学んだ。1890年にリリー・クラマーと結婚してミュンヘンに移り、初めは画家、挿絵画家、製本家として、職人的に仕事をした。ボヘミアン的な集まりに出入りし、生活様式の改革にも関心を持っていた。1890年代には、ミュンヘンで職を得られた数少ない応用美術家の一人で、1892年にミュンヘン分離派に参加した。分離派では、若い芸術家たちが現代ドイツの生活を映す芸術を求めていた。
1899年、ヘッセン大公エルンスト・ルートヴィヒの招きで、新設のダルムシュタットの芸術家村の、二人目の会員となった。1901年にそこで自邸を建て、家具からタオル、絵画、陶器に至るまで、すべてを自ら構想した。ユーゲントシュティールの影響が色濃いこの自邸は、画家から転向した直後の最初の仕事であり、彼が建築家として才能を示した転機とされる。1903年にはデュッセルドルフの工芸学校の校長に任命され、デザイン教育の新しい方法を築き、改革に成功した。1907年にはヘルマン・ムテジウスらとともに、ドイツ工作連盟の創設に加わった。この団体は日用品や製品のデザインを改善して、ドイツ全体の趣味の水準を高めることをめざし、産業界や政策担当者、批評家らに大きな影響を与えた。
同じ1907年にベルリンに事務所を開設し、電機メーカーAEGの美術顧問に就いて、同社のタービン工場の設計を手がけた。鉄骨造という新しい技術を用いながら、機能を優先した工場を、古典主義的な骨格を持つ芸術的なデザインで構成したもので、モダニズム建築の初期の代表的な作品となった。社員ではなく顧問だったため、他の仕事も自由に行えて、建築事務所は大いに成功した。ガス給湯器や照明器具、家電、文房具、タイプライターといった工業製品のデザインも手がけたほか、ロゴや広告まで企業の姿を一貫して設計し、史上初の工業デザイナーとも見なされる。彼のデザインした会社のロゴは各種のAEG製品に使われ、コーポレートアイデンティティの先駆けとなった。
事務所には多くの弟子や助手が集まり、ヴァルター・グロピウス、ルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエ、ル・コルビュジエも一時期ここに在籍した。タービン工場に続いて、大胆で記念碑的な、簡素化された古典主義の大規模な事務所建築を設計した。1912年のサンクトペテルブルクのドイツ大使館や、ハノーファーのコンチネンタル社の管理棟がその例である。ほかにハーゲンの火葬場や、考古学者の注文による邸宅も手がけた。第一次世界大戦後はレンガ表現主義を探り、ヘキスト染色工場や、オーバーハウゼンのGHH社中央倉庫などを設計した。後者は1920年のコンペで選ばれて建設され、現在はライン工業博物館の資料館として使われている。1922年にはウィーン美術院の建築学校長に就任し、1936年まで務めた。1940年2月27日にベルリンで亡くなった。
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