伝記
ガイウス・アントニウスは、共和政ローマ末期の政治家で、紀元前82年(85年とする見方もある)頃に生まれ、紀元前42年に処刑された。マルクス・アントニウス・クレティクスと、ルキウス・ユリウス・カエサルの娘ユリアの次男で、三頭政治家マルクス・アントニウスの弟にあたる。平民系のアントニウス氏の出で、兄マルクスのあとに、弟ルキウスより先に生まれた。
父が遠征の敗北のあとに亡くなったため、親の目が行き届かないなかで育ち、兄弟とともに宴会や醜聞、賭け事のただなかで若い日々を過ごしたという。ローマの貴族の子弟として、おそらく優れた教育を受けたとみられる。紀元前51年にはクァエストルを務めた可能性が高い。
紀元前49年からの内戦では、ユリウス・カエサルの副官となり、イリュリアをポンペイウス派から守り、反乱側とポンペイウス派に奪われた都市を取り戻す任務を委ねられた。新たに徴募された第24軍団と、新しい第28軍団の半数を預けられたが、イリュリアへ向かう途中でポンペイウス派の艦隊に捕捉された。百人隊長ティトゥス・プッロに率いられた兵は戦うことを拒み、裏切ったと伝えられ、のちにデュッラキオンの戦いで戦っているのが報告された。別の説明では、ドラベッラとともにイリュリアの防衛を任されたが、ドラベッラの艦隊が壊滅し、ガイウスはクリクタ島に立てこもったのち、ポンペイウス側に降伏せざるをえず、部下はポンペイウス派の軍団に組み込まれたという。ファルサルスでカエサルが勝ったあと、ガイウスは解放された。
カエサルの独裁のもとでは、一族の者たちとともに公職の階梯を上った。紀元前44年には、兄マルクスが執政官、弟ルキウスが護民官であるのに対して、ガイウスは首都担当のプラエトルであった。もっとも、デキムス・ユニウス・ブルトゥスが職務を代行させたことにより、事実上のプラエトルとなったとの説明もあり、七月初めにはアポロ祭を主宰したとされる。オクタウィアヌスが五月にローマへ来たとき、マルクスは不在で、ローマは二人の弟の手にあった。
カエサルが暗殺されると、カエサル派のガイウスはマケドニア属州の総督に任じられた。ところが暗殺者のマルクス・ユニウス・ブルトゥスらは、オクタウィアヌスから逃れる拠点にマケドニアを選び、ガイウスの抵抗にあって、その総督の地位を奪った。ブルトゥスははじめ寛大に扱ったが、ガイウスが兵に反乱を促そうとしていることが分かり、また兄マルクスの指示でキケロが殺されたことも重なって、ついに処刑を命じたという。別の説では、ブルトゥスは捕らえた彼を丁重に扱いつつ捕虜とし、紀元前42年の春、デキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスの死とキケロの死への報復として、ホルテンシウスの子の手で処刑されたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディアヌス (紀元前41)
- アルシノエ4世 (紀元前41年没)
- プブリウス・セルウィリウス・カスカ (紀元前41)
- Ariobarzanes III of Cappadocia (紀元前41)
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