伝記
クィントゥス・ラビエヌスは、共和政ローマ末期の政務官で、のちにパルティアに転じてその将軍を務めた人物である。紀元前39年に没した。護民官を務めたティトゥス・ラビエヌスの息子であるが、生年や前半生は確認できない。父と同じ戦場で経験を重ねた可能性も考えられている。後に「パルティクス」の称号を名乗った。
紀元前44年3月にカエサルが暗殺されると、ローマは再び内戦に陥った。この内戦で、ポンペイウス派の流れをくむ共和主義者は、暗殺の首謀者であるガイウス・カッシウス・ロンギヌスとマルクス・ユニウス・ブルトゥスが率い、オクタウィアヌスとマルクス・アントニウスらに対抗した。ラビエヌスはカッシウスらに組し、援軍を求めてパルティアへ赴いた。カッシウスとブルトゥスに派遣されてパルティア王オロデス2世のもとへ行ったとも、ペルシアへ逃れたともいわれる。王は成り行きを見守って彼を長く留め置いた。紀元前42年10月のフィリッピの戦いで共和主義者が敗れると、ラビエヌスは勝者の報復を恐れてパルティアにとどまった。
アントニウスが東方の属州の統治に失敗し、エジプトへ去ったのを見て、ラビエヌスはオロデスにローマへの攻撃を説いた。ローマ軍の一部は戦いで壊滅または弱体化し、別の軍は反乱状態にあると述べ、アントニウスがエジプトにいる間にシュリアへ侵攻するよう勧めたという。多くの属州はアントニウスの苛政に疎外されており、王を歓迎するだろうとも語った。自らが軍の指揮を執ることも申し出た。オロデスは説得されて戦争を決め、大軍をラビエヌスと息子のパコルス1世に託した。プルタルコスは、メソポタミアにあってシュリア侵攻の構えを見せていたパルティア軍の総指揮官に、パルティアの将軍たちがラビエヌスを任命したと書いている。ユスティヌスは、侵攻軍を率いたのはパコルスだったとする。
紀元前40年、パルティア軍はユーフラテス川を渡ってローマ属州シュリアへ攻め入った。ラビエヌスはパコルスとともに指揮を執り、フェニキアに侵入してアパメアを攻めたが、いったんは撃退された。しかしフェニキアのローマ駐屯軍は、カッシウスやブルトゥスのもとで戦い、のちにアントニウスの軍に編入された兵だったため、ラビエヌスを知っており、抵抗なく彼に従った。アントニウスからシュリアの指揮を任されていたルキウス・デキディウス・サクサだけが寝返らず、逃げた。ラビエヌスはこれを追って破り、サクサはアンティオキアへ、さらにキリキアへ逃れた。アパメアの住民はサクサが死んだと思って降伏し、アンティオキアも降伏を強いられた。ラビエヌスはキリキアで追いついてサクサを捕らえ、処刑した。一方、パコルスはティルスを除くシュリアを制圧し、さらにユダヤへ進んで、ヒルカノス2世を退け、その甥で敵でもあったアンティゴノス2世マッタティアスを王位に据えた。ラビエヌス自身はキリキアを占領し、カリアの3都市を除くアナトリア南岸の諸都市の服属を得た。ストラトニケイアは長く包囲したが落とせなかった。こうして一時は小さな都市を除き、旧アケメネス朝の領域に迫るほどまで勢力を広げた。
しかし紀元前39年、ローマ軍の反撃が始まった。ラビエヌスはサクサと同じくアントニウス派の将軍プブリウス・ウェンティディウス・バッススと、タウルス山脈の山道、通称「キリキアの門」で衝突した。ウェンティディウスは騎兵を山の斜面で動きにくくして討ち取る戦法をとり、ラビエヌスはこれにはまって敗死した。この戦いはキリキアの門の戦いと呼ばれる。ウェンティディウスはこれらの属州をアントニウスのために取り戻した。
同じ年に亡くなった人物
- ビテュニアのアスクレピアデス (紀元前39)
- ファサエル (紀元前39)
- ルキウス・アントニウス (紀元前 39年)
- Quintus Salvius Salvidienus Rufus (紀元前 39年)
- Cornificia (紀元前39)
同じ地域に関係する人物
- オシン (1320年没)
- Mleh (1175年没)
- ヘトゥム2世 (1307年没)
- デイダメイア (紀元前299)
- モプスエスティアのテオドロス (428年没)