伝記
アリアラテス10世は、紀元前42年ごろから紀元前36年まで在位したとされるカッパドキアの王である。称号はエウセベス・フィラデルフォス(敬虔なる、兄弟を愛する者)といい、ペルシアとギリシャの血を引いた。一部の歴史家は、アリアラテス9世と数えることもある。没年は、紀元前41年ごろとも紀元前36年ごろともいわれ、定まっていない。
父はカッパドキア王アリオバルザネス2世、母は王妃アテナイスである。父は紀元前52年から51年にかけて陰謀によって命を落とし、年長の息子のアリオバルザネス3世が後を継いだ。ところがほどなく、一派が弟のアリアラテスを王に立てようとした。紀元前51年にキリキアを統治していたキケロの書簡にも、カッパドキアでそうした動きがあったことが見える。その後、アリアラテスは兄に従ってポンペイウスの陣営に加わったらしいが、これは別人との混同の可能性も指摘されている。
紀元前47年、カエサルはカッパドキアの支配関係を整理した。このとき、アリアラテスを兄の王位の継承者とし、兄の支配下で小アルメニアの一部を与えたとみられる。紀元前45年、アリアラテスはローマを訪れた。キケロの言葉によれば、自分の領土にはもう足の踏み場もないとして、カエサルに王国を求めるためだったという。
紀元前42年、兄のアリオバルザネス3世は、カエサル暗殺者の一人カッシウスの命令で、支援が足りないとして、あるいは陰謀を企てたとして処刑された。これを受けてアリアラテスが新しい王となり、ローマの従属王として統治したが、国内で広く認められたわけではなかった。やがてアルケラオスが王位を争う相手として現れた。アルケラオスは、コマナのベローナ神殿の大祭司の次男とされ、一説には、アントニウスの愛人グラフィラの子ともいう。また、アントニウスがまず対抗者としてシシネス(シシンナ)を立て、その後でアルケラオスを王に据えて、アリアラテスを処刑させたとも伝えられる。
フィリッピの戦いでカッシウスらが敗れたあと、三頭の一人アントニウスは、紀元前41年に東方へ来て情勢を整理した。歴史家アッピアノスによれば、このときアントニウスは王位争いでアルケラオス側に立ち、アリアラテスの要求を退け、アリアラテスはこのときに命を落としたらしい。これに対し、カッシウス・ディオはアントニウスの裁定を紀元前36年の東方再編と結びつけて記している。研究者の間でも見方は分かれ、一人は前者の年代を支持するが、別の研究者は、アントニウスが紀元前41年にはまだアリアラテスを退けず、五年後に追放したと考える。その理由は、紀元前40年から39年のパルティアの小アジア侵入の際に、アリアラテスがローマの敵と手を組んだらしいことにあるという。いずれにせよ、アリアラテス10世は退けられて命を落とし、アルケラオスが王位に就いた。治世は短く、最期の時期ははっきりしない。
同じ年に亡くなった人物
- セクストゥス・ポンペイウス (紀元前35年没)
- ガイウス・サッルスティウス・クリスプス (紀元前35年没)
- アリストブロス3世 (紀元前35)
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