伝記
ティトゥス・ポンポニウス・アッティクスは、紀元前110年ごろに生まれ、前32年に没した共和政ローマ末期の知識人であり、騎士階級の富裕な実業家である。キケロの親友として知られ、キケロが彼にあてた書簡は『アッティクス宛書簡集』として伝わる。裕福で教養ある銀行家の家の子として生まれ、優れた教育を受け、4歳年長のキケロとは、法学者ムキウス・スカエウォラの講義に通うなかで知り合った。前89年に父が早く亡くなると、大きな財産を継いだ。学識があり、ラテン語もギリシア語も巧みに書いたが、エピクロス哲学を奉じ、公職に就く道を選ばなかった。
前88年ごろ、スッラとマリウスの内乱が始まり、従姉妹の夫である護民官スルピキウス・ルフスが殺されると、アッティクスは持ち出せない財産を売ってローマを去り、アテナイに移った。そこで20年以上を過ごしたことから「アッティクス」と呼ばれるようになったとされる。出発の前には、マリウスの子が国家の敵とされた際に金を与えて逃亡を助けた。前84〜83年にはアテナイに滞在したスッラと親しくなったが、ローマへの同行を求められると、党派に加わりたくないから国を離れたのだと断った。アテナイの人々に愛され、彫像を建てたいと望まれたが、栄誉を避けて辞退したという。
前65年にローマへ戻ると、叔父の遺産を相続して、屈指の富裕な騎士となった。前58年に母方の叔父の遺言で膨大な遺産の相続人に指定されたとも伝えられる。前56年、54歳で結婚し、娘アッティカをもうけた。アテナイの再興のために私財を投じ、自らは出版業も営んだ。主な仕事は金融で、エピルスの大地主でもあり、裕福な友人のために美術品を仲介し、剣闘士の養成所を持って、祭典を催す都市に貸し出したともいう。ただし暮らしぶりは比較的質素であった。当時の出版は上流の人間が行う仕事ではなかったが、利益よりも、アテナイの文芸を興し、ローマの文芸の振興につなげる目的があったと考えられている。キケロの書簡には、著作の校訂や出版のやりとりと、アッティクスのもとに多くの写本係や校訂係がいたことが記されており、当時の出版の様子を断片的に伝える。
政治では一貫して中立を保った。カエサルとポンペイウスらが争った内戦でも、どちらからも友情を失わず、カトーやポンペイウス、カエサル、さらにカエサルの暗殺者ブルトゥスにまで資金を援助し、ブルトゥスには40万セステルティウスを贈ったとされる。カエサル暗殺後は、アントニウスとの親交を保ちつつ、ブルトゥスの母セルウィリアを保護するなど、各勢力との関係を維持した。ムティナ戦争後に窮したアントニウスを助けたことが、前43年に命を救ったともいう。キケロがアントニウスに殺されても、混乱を乗り切った。前37年ごろには、娘をオクタウィアヌスの右腕アグリッパに嫁がせた。
アッティクスは友情を重んじ、政治的立場を問わず人々に寄り添ったと評される。キケロは、実の弟クィントゥスにも劣らない親愛をアッティクスに寄せたといい、アッティクスの妹ポンポニアはクィントゥスの妻となった。キケロの死後、書簡集の公刊にあたり、自身に都合の悪い箇所を削除した可能性も指摘されている。現存するキケロの書簡は全部で954通とされ、そのうち『アッティクス宛書簡集』には454通が収められている。伝記は協力者のコルネリウス・ネポスが書いた。前32年に没した。
同じ年に亡くなった人物
- ボックス2世 (紀元前32)
- ティベリウス・クラウディウス・ネロ (紀元前 32年)
同じ地域に関係する人物
- ルドルフ・シャドウ (1822年没)
- ゴッフレード・アレッサンドリーニ (1978年没)
- ナタリア・ギンズブルグ (1991年没)
- Lucius Aelius Lamia (33年没)
- フランチェスコ・ガスパリーニ (1727年没)