伝記
ナタリア・ギンズブルグは、旧姓をレーヴィといい、1916年7月14日にシチリアのパレルモで生まれたイタリアの小説家である。1919年に父がトリノ大学の職を得たため、青春期の多くをトリノで過ごした。父ジュゼッペ・レーヴィは、著名な組織学者で、ユダヤ系のイタリア人の家に生まれ、母リディア・タンツィはカトリックだった。両親は世俗的で、姉のパオラ(のちにアドリアーノ・オリヴェッティと結婚)、3人の兄弟、ナタリアを無神論者として育てた。家は文化生活の中心で、両親は知識人や活動家、実業家を招いていた。17歳の1933年に、最初の短編「子供たち」を文芸誌『ソラリア』に発表した。
1938年にレオーネ・ギンズブルグと結婚し、カルロ(のち歴史家)、アンドレア、アレッサンドラの3人の子をもうけた。第二次世界大戦中、ナタリアは比較的嫌がらせを受けずに暮らせたが、ウクライナ生まれの作家だった夫のレオーネは、反ファシズムの活動のために、1941年から1943年まで、アブルッツォの村プッツォーリに流刑となり、彼女と子供たちは、ほとんどの時間をともに過ごした。夫妻は政権に反対して、ひそかにローマへ行き、反ファシズムの新聞を編集していたが、レオーネは逮捕され、1944年に獄中で、激しい拷問を受けて死んだ。1942年に最初の長編『町へゆく道』を刊行した。この作品は、ユダヤ人の出版が禁じられていた、ファシズム下で最も反ユダヤ主義が強い時期だったため、筆名で出された。1940年代の多くを、トリノの出版社エイナウディで働いて過ごし、1947年に2作目の長編を出した。
1950年に、英文学者のガブリエーレ・バルディーニと再婚し、ローマへ移った。以後20年ほどが、作家として最も多産な時期で、代表作の大半がこの間に書かれた。夫妻はローマの文化生活に深く関わった。この結婚で、スザンナとアントニオが生まれたが、アントニオは幼くして亡くなり、夫も1969年に亡くなった。1952年に『わたしたちのすべての昨日』でヴェイヨン賞を、1957年に『ヴァレンティーノ』でヴィアレッジョ賞を、1963年に『ある家族の会話』でストレーガ賞を受けた。1964年には、ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画『奇跡の丘』に、ベタニアのマリア役で出演した。映画やドラマの脚本も担当した。
生涯にわたり、活動家、論客として政治に関わり、一時は共産党に属した。1983年には無所属でイタリアの国会議員に選ばれた。1984年に『マンゾーニ家の人々』でバグッタ賞を受けた。戦争中の夫婦の体験は、ユダヤ人としての自己認識を変え、はじめはユダヤ人の迫害に連帯してシオニストになったが、1972年のミュンヘンの事件のころには、その立場を捨てていた。キリストは迫害されたユダヤ人だと信じて、カトリックを支持するようになり、仲間内で論争を呼んだ。公共の建物からの十字架の撤去には反対した。随筆家の須賀敦子は、彼女を、書くことを作品を通して教えてくれた、かけがえのない師として私淑し、『ある家族の会話』『モンテ・フェルモの丘の家』などを日本語に訳した。1991年10月7日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- ジョン・マコーン (1991年没)
- トニー・リチャードソン (1991年没)
- ルイジ・ザンパ (1991年没)
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