伝記
ボルコ1世スロヴィは、シロンスクのピャスト家に属する公で、ヤヴォル公、ルヴヴェク公、のちにシフィドニツァ=ジェンビツェ公となった。スロヴィは「厳格さ」を意味する異称で、「未熟さ、粗野」を意味するスロギという異称も知られる。1252年または1256年に生まれ、レグニツァ公ボレスワフ2世の次男で、母はアンハルト伯ハインリヒ1世の娘ヘートヴィヒである。父の存命中は年代記にほとんど登場しない。1277年にレグニツァ公の一族が勝利したストレツの戦いには、参加したとみられる。
1278年12月26日に父が没すると、ボルコは弟ベルナルトとともにヤヴォルとルヴヴェクを与えられて共同で治め、兄ヘンリク5世がレグニツァを保った。従弟のヴロツワフ公ヘンリク4世の勢力拡大から小さな公国を守るため、ボルコはブランデンブルク辺境伯たちを頼り、1279年4月14日に辺境伯オットー5世の娘ベアトリクスと婚約した。この縁でローマ王ルドルフ1世とヘンリク4世の紛争に巻き込まれ、1280年にヴロツワフへ、翌年にプラハへ遠征したが、ヘンリク4世の報復を招くだけに終わった。1281年には弟と領地を分け、ボルコがヤヴォルを、ベルナルトがルヴヴェクを単独で治めることになった。親族関係にあったため結婚は1284年まで延び、教皇の認可は翌1285年に下りた。1286年に弟ベルナルトが子を残さず没すると、協定にしたがってルヴヴェク公国を継いだ。1280年代の後半にはボヘミア王ヴァーツラフ2世に接近してプラハを訪れたが、支配には強く抵抗したため、得たのはションベルク城ぐらいだった。
1290年にヘンリク4世が急死すると、兄ヘンリク5世はヴロツワフを占領したが、貴族たちの反発や、グウォグフ公ヘンリク3世の譲渡要求に直面した。ボルコは兄を支援すると決めて相当の代償を求め、シフィドニツァなどを譲られた。しかし送った支援は十分でなく、ヘンリク5世はヘンリク3世に敗れて鉄の籠に入れられた。ボルコは兄の不在中に摂政を務めたが、兄の解放を敵に働きかけなかったという。1290年代にはボヘミアとの関係が悪化し、ボルコは要塞を築いた。ヴロツワフ司教領のニサ=オトムフフの支配権を奪おうとして、司教ヤン・ロムカの怒りを買い、1294年に破門されて領地が職務停止となり、要求を撤回して占拠した司教館を返した。1295年にはヴァーツラフ2世と交戦したが、カミェンナ・グラの要塞でボヘミア軍を足止めし、領土を教皇ボニファティウス8世の保護下に置き、相手が和解を選ぶしかない状況を作った。
1296年に兄ヘンリク5世が3人の幼い息子を遺して没すると、ボルコは遺児の後見人となり、レグニツァ=ヴロツワフ公国の摂政に就いた。ヴロツワフの貴族の反抗に乗じたヘンリク3世の攻撃も退け、ホイヌフとボレスワヴィエツを奪った。ボヘミアとの和平は1297年の年明けに結ばれたとみられ、同年6月2日にはプラハでのヴァーツラフ2世の戴冠式に出席した。1297年3月までにズヴァノヴィツァチュで開かれた諸公の会議では、ヘンリク3世と和解した。1299年3月21日には教皇の封臣と認められ、晩年はシロンスクで最も勢威ある公となることに力を注いだ。自領ではドイツ人の移住を奨励し、シトー会を保護してクシェシュフにグリュッサウ修道院を建てた。
1301年11月9日、49歳で急死し(45歳ともいう)、グリュッサウ修道院に葬られた。息子たちは幼かったため、妻の兄弟であるブランデンブルクのヘルマン辺境伯が甥たちの摂政を務めた。ベアトリクスとの間には10人の子が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- レーヴ・ダヌィーロヴィチ (1301年没)
- カイドゥ (1301年没)
- 張三丰 (1301年(推定))
- ビオランテ・デ・アラゴン (1301年没)
- アンドラーシュ3世 (ハンガリー王) (1301年没)
同じ地域に関係する人物
- カール・ホルタイ (1880年没)
- スタニスワフ・コワルスキー (2022年没)
- リヒャルト・プファイファー (1945年没)
- ゲアハルト・ハウプトマン (1946年没)
- ヘートヴィヒ・エリーザベト・フォン・デア・プファルツ (1722年没)