HISTORICAL PERSON · 1946年没

ゲアハルト・ハウプトマン

ドイツの劇作家・小説家。自然主義演劇の中心的人物で、初の戯曲は『日の出前』。1912年にノーベル文学賞を受賞した。

生涯
1946年没
死亡地
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県 / ヤグニョントクフ)
出生地
ポーランド共和国(シュツァヴノ=ズドルイ)
出典
世界地図
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県)

伝記

ゲアハルト・ハウプトマンは1862年、プロイセン王国領ニーダーシュレージエンのオーバーザルツブルンに生まれた。両親は当地でホテルを営んでいた。村の学校に通った後、1874年にブレスラウの実業学校へ進んだが、都市生活や厳しい校風になじめず、病気のため進級にも苦労した。1878年に叔父の農場で農業を学び始めたものの、体力が続かず、肺を患ったため中断した。1880年にはブレスラウの美術工芸学校で彫刻を学び、一時退学処分を受けたが、教授の推薦で復学した。1882年に同校を離れた。

その後、兄の結婚式に短い戯曲を書き、そこで花嫁の妹マリー・ティーネマンと出会った。二人は密かに婚約し、マリーの経済的支援を受けてイェーナ大学で哲学と文学史を学んだが、ほどなく中断した。マリーの援助で兄と地中海を旅し、ローマに腰を据えて彫刻家を目指したものの、作品は成功せず、粘土で作ったドイツ戦士の像も崩れた。帰国後はドレスデンの美術学校に短期間通い、ベルリン大学で歴史を学んだが、研究より演劇に関心を向けた。1885年5月にマリーと結婚した。肺の具合から都市の空気が合わず、最初の四年間はエルクナーで暮らし、三人の息子をもうけた。1889年にベルリンへ移り、自然主義文学の作家たちと交流した。1887年に書いた小説『踏切番ティール』は翌年に刊行され、1889年には戯曲『日の出前』がオットー・ブラームの演出で上演された。この作品は現代ドイツ文学の自然主義運動を切り開いた。

『日の出前』はイプセンの影響を受け、労働者の抱える問題を自然主義の手法で描いた。続く『平和祭』『寂しき人々』を経て、1892年の『織匠』では1844年のシュレージエン織工の蜂起を取り上げ、下層階級の生活を舞台に描いた。この戯曲は代表作の一つとなった。その後も風刺喜劇『ビーバーの毛皮』、ロマン主義的な『ハンネレの昇天』、象徴主義的な『沈鐘』を発表し、歴史劇や童話劇にも取り組んだ。ティル・オイレンシュピーゲルを題材とする作品も書いた。自然主義から出発しながら複数の様式を試し、後には社会問題より個人の内面に目を向ける作品が増えた。

1893年に女優マルガレーテ・マルシャルクと関係を持つと、マリーは三人の息子を連れてアメリカへ移った。ハウプトマンは後を追ったが、夫婦の溝は埋まらず、1904年に離婚した。彼は1901年からシレジアのアグネテンドルフでマルガレーテと暮らし、1900年に生まれた息子ベヌヴェントの母である彼女と1904年に再婚した。二度目の結婚も、1905年と1906年に十六歳の女優イダ・オルロフとの関係をめぐって危機を迎えた。1910年には、太陽崇拝とキリスト教を混ぜた説教を行う放浪者を描く最初の長編小説『キリスト狂エマヌエル・クヴィント』を発表した。

1912年、文学における功績によりノーベル文学賞を受けた。1896年、1899年、1905年にはグリルパルツァー賞を受賞し、1932年にはゲーテ賞を受けた。1920年ごろ、ベルリン赴任中の三菱商事社員・秦豊吉がファンレターを出すと、ハウプトマンは秦をシュレージエンの山荘へ招き、日本の神道や文化について尋ねた。秦は大晦日の年越しパーティーにも招かれたという。1946年6月6日、83歳で死去した。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物