HISTORICAL PERSON · 紀元前27年没

マルクス・テレンティウス・ウァッロ

共和政ローマ後期の政務官で、学者・著作家。ポンペイウス派としてカエサルに抵抗して降伏し、のちアウグストゥスの庇護下で著作に専念した。74作品約620巻を記したとされるが、完全に残るのは『農業論』のみ。

生涯
紀元前27年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(リエーティ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

マルクス・テレンティウス・ウァッロは、紀元前116年に生まれ、紀元前27年に没した共和政ローマ後期の政務官である。学者、著作家としても知られ、出身地にちなんでレアテのウァッロとも呼ばれる。古代ローマ最大の学者とみなされ、ペトラルカは彼を、ウェルギリウスとキケロに次ぐ「ローマの第三の光」と評した。レアテ(現在のリエーティ)またはその近郊で生まれ、家は騎士階級であったと考えられている。生涯を通じて故郷の近くに広い農場を所有し、老年までそこに関わり続けたという。若い頃はローマの言語学者アエリウス・スティロのもとで学び、のちにアテナイでアカデメイア派の哲学者、アスカロンのアンティオコスに師事した。

政治的にはグナエウス・ポンペイウスを支持し、護民官、財務官、造営官を経て法務官の職に就いた。紀元前59年にはカエサルが進めたカプアとカンパニアの再植民計画を実行する20人の委員の一人となった。一方で、紀元前60年に三頭政治が成立した際には、その方向に不満を抱いていたらしく、この連合を風刺した『三つ頭の怪物』という著作を書いたという。そのため執政官への道を失った可能性があるともいわれる。紀元前49年に内戦が始まると、ルキウス・アフラニウスやマルクス・ペトレイウスと共にヒスパニアの元老院派軍を率いてカエサル軍に抵抗したが、イレルダの戦いで敗れ、本軍が駐留するギリシアへ逃れた。紀元前48年8月のファルサルスの戦いでは、兵站基地デュッラキウムの守備に就いた。しかし元老院派の敗戦とポンペイウスの死を受け、キケロらと共にカエサル派に降伏した。カエサルは、ファルサルスの前後に2度、彼を赦したとされる。

紀元前47年、カエサルは彼をローマの公共図書館の責任者に任命した。ところが紀元前44年にカエサルが暗殺され、マルクス・アントニウスが権力を握ると、彼は追放処分の対象とされ、蔵書を含む多くの資産を失った。アクティウムの海戦でアントニウスが敗れ、アウグストゥスが覇権を握ると、側近マエケナスの影響もあって文化の保護に積極的であったアウグストゥスの庇護を受け、研究と著作に専念できた。アウグストゥスが初代皇帝となった紀元前27年に没したと伝えられる。

著作は74作品、約620巻に及ぶと推測されているが、完全な形で残るのは『農業論』だけである。老年に妻フンダニアのために書かれたこの書は、奴隷が働く大規模な農園の経営を論じる。現存する『ラテン語論』は25巻のうち6巻で、一部が損なわれている。『九つの学科』は後の百科全書家、特に大プリニウスの模範となり、文法、修辞学、論理学、算術、幾何学、天文学、音楽理論、医学、建築の九つの学問を挙げた。この選択は後に中世の自由七科の枠組みに受け継がれたとされる。共和政の執政官の順序に基づいて年代を整えた『年代記』は、いくつかの誤りが指摘されながらも、アウグストゥスの門に刻まれたことで標準的な年表となった。門自体は失われたが、その大部分は『カピトリヌスの執政官表』として現存する。ウァッロは沼地や湿地を避けるよう警告し、そこには肉眼では見えない微小な生き物が育ち、空中を漂って口や鼻から体内に入り、重い病を起こすと述べた。クインティリアヌスは彼を「ローマ人で最も教養がある」と評し、プルタルコスも「ローマの歴史に深く通じた人物」と認めた。多くの著述家が彼を貴重な情報源とし、ウィトルウィウスは彼に建築学の著作があったと伝えている。『農業論』は、あらゆることを見聞きして実践した経験豊かな農民の、よく練られた体系と評されている。

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