伝記
アッティカは、キケロの友人でエピクロス派の知識人ティトゥス・ポンポニウス・アッティクスの娘であり、アウグストゥスの親友マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの最初の妻となった女性である。一般には紀元前51年の生まれとされるが、紀元前55年説や紀元前58年説も出されており、確定していない。
母はピリアで、三頭政治の一人マルクス・リキニウス・クラッススの母方の孫にあたる。両親は紀元前58年から56年ごろに結婚した。このとき父アッティクスはすでに53歳か54歳だったという。母は結婚から12年後の紀元前46年に亡くなった。父は晩年に母方の叔父の養子となってクィントゥス・カエキリウス・ポンポニアヌス・アッティクスと名乗ったため、その後に生まれた彼女はカエキリアと呼ばれたはずだと推定されるが、実際にはポンポニアと呼ばれることが多い。キケロは彼女をアッティクラという愛称で呼んだ。
キケロはこの幼い少女をたいそう可愛がり、アッティクスへの手紙でたびたび彼女によろしくと書き送り、高熱の発作を起こしていないかを気づかった。紀元前40年代の初めの手紙には、キケロに腹を立ててふくれていた彼女を叱らないでほしい、前回の訪問で別れの挨拶をきちんとしなかったという彼女の言い分はもっともだ、という内容がある。キケロは紀元前43年に殺されたため、成長した彼女を見ることはなかった。彼女は5、6歳のころから広く文学の教育を受けた。父は解放奴隷のクィントゥス・カエキリウス・エピロタを家庭教師につけたが、エピロタは彼女との不適切な関係を疑われて追放された。
アグリッパは、オクタウィアヌスの右腕で信頼の厚い友人だった。二人は少年のころ、カエサルがオクタウィアヌスを養子にする前に、イリュリアのアポロニアでともに学んだ仲である。この結婚は彼女にとって非常に幸運な縁組だった。コルネリウス・ネポスによれば、縁組を取り持ったのはマルクス・アントニウスであり、アグリッパは貴族の娘と結婚する機会があったのに、騎士身分の娘を選んだという。結婚の時期は不明で、婚約は紀元前42年にはすでに決まっていたかもしれない。ロナルド・サイムは紀元前37年ごろの結婚と考えた。娘ウィプサニア・アグリッピナは紀元前36年ごろに生まれ、わずか1歳でのちの皇帝ティベリウスと婚約した。ほかに、クィントゥス・ハテリウスに嫁いだ娘がいた可能性もある。
晩年と死については分からない点が多い。紀元前28年ごろ、アグリッパはオクタウィアヌスの姪クラウディア・マルケッラ・マイオルと再婚したが、アッティカがそれ以前に亡くなったのか、離縁されたのかは不明である。ネポスが父の臨終に呼ばれた人々の中に彼女を挙げていないことから、紀元前32年にはすでに亡くなっていたとする説がある。また、ひげを生やしたアグリッパを刻んだ貨幣を服喪のしるしとみて、彼女の死を紀元前29年ごろとする説もあるが、この年代には異論も出ている。エピロタとの件を、アグリッパがオクタウィアヌスに近い家の女性と再婚するための離縁の口実にしたのではないかと推測する研究者もいる。これに対しゲイル・ハミルトンは、アグリッパが父アッティクスと親しかったことから、妻を中傷の犠牲にするとは考えにくいと反論した。ルイージ・カンタレッリは、スエトニウスが事件の責任を彼女に負わせていないと指摘し、マイヤー・ラインホルドもこれを認めている。アグリッパはアウグストゥスの治世を通じて、彼女の生家ポンポニウス家の人々を支援し、引き立て続けた。ブトリントには彼女の像が立っていたかもしれない。
同じ年に亡くなった人物
- マルクス・テレンティウス・ウァッロ (紀元前27年没)
同じ地域に関係する人物
- シャルロット・ド・リュジニャン (1487年没)
- プブリウス・コルネリウス・ドラベッラ (紀元前283年の執政官) (紀元前282年没)
- ルキウス・ウァレリウス・フラックス (紀元前195年の執政官) (紀元前180年没)
- ウジェーヌ・ティサラン (1972年没)
- ジュゼッペ・ペッラ (1981年没)