伝記
アーディル・キトブガーは、エジプトのバフリー・マムルーク朝のスルタンである。在位は1294年12月から1296年11月までで、即位名のアル=マリク・アル=アーディルから、アーディル・キトブガーとも呼ばれる。モンゴルの出身のマムルークで、もとはフレグのイルハン朝軍の兵士であった。幼いころ、ヒムスの戦いでマムルーク朝の捕虜となった。この戦いは1260年とも1261年ともいわれる。当時アミールであったカラーウーンに買い取られて養育され、成長してそのマムルークとなった。のちにカラーウーンは彼を解放して、アミールの位を与えた。
カラーウーンの子アシュラフ・ハリールの治世には、一度捕らえられ、釈放されている。アシュラフ・ハリールの暗殺計画にも参加したとされる。1293年にハリールが暗殺されると、幼いナースィル・ムハンマドが即位し、キトブガーはその執権となった。ナースィル・ムハンマドはわずか9歳であったため、キトブガーは宰相のサンジャル・アッシュジャーイーとともに、事実上エジプトを統治した。しかしアッシュジャーイーとは仲が悪く、アッシュジャーイーはブルジー・マムルークの支持を得て、キトブガーの逮捕と配下のアミールの暗殺を企てた。この計画を、クンガルというタタール人が知らせた。キトブガーは城塞を包囲したが、ブルジー・マムルークに敗れ、いったんビルバイスへ逃れた。のちにカイロに戻って城塞を再び包囲し、包囲は7日間続いた。アッシュジャーイーの側のアミールが次々にキトブガーの側につき、人望のなかったアッシュジャーイーは、城塞へ向かう途中で殺された。
キトブガーは、権力をいっそう強めた。ハリール殺害に加わったラージーンとカラーサンカルを赦免したため、ハリールの配下だった約300人のマムルークが不服として暴動を起こしたが、鎮圧された。ラージーンは、ナースィルを廃位するようすすめた。キトブガーはアミールたちを集め、国の秩序が崩れており、スルタンが幼いままでは敬意が保てないと語った。アミールたちは賛成し、ナースィル・ムハンマドは母とともにカラクへ移され、キトブガーが1294年にスルタンに即位してアーディルを名乗った。ラージーンは執権とされ、アミールたちには領地が与えられた。
1296年、フレグの女婿トゥルガイに率いられたモンゴル系のオイラト人が、ガザンを逃れてシリアに到着した。その数は1万人にも達したといい、一部はカイロで歓迎されて土地を与えられ、残りはシリアの沿岸の町に身を寄せた。しかし、疫病や飢饉が起こり、民衆は不満を抱いた。オイラト人が改宗していないことを知ると、民衆はキトブガーを憎悪した。恩賞を与えられなかったシリアのアミールも、ラージーンへの忠誠を失った。同じ1296年にラージーンによるクーデターが起こり、ダマスカスからカイロに向かう途中、ティベリアス付近で野営していたキトブガーは刺客に襲撃されたが、間一髪で助かってダマスカスに逃れた。アミールのなかに支持者がいないことを知り、スルタンの位をラージーンに明け渡した。その後はシリアの辺境サルハドに左遷されたが、のちにハマーの太守に昇進し、同地で1302年に没した。没年は1303年ともいわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ハーキム1世 (1302年没)
- ムハンマド2世 (ナスル朝) (1302年没)
- Matthew of Aquasparta (1302年)
- ブランシュ・ダルトワ (1302年没)
- ヘルフタのゲルトルード (1302年没)
同じ地域に関係する人物
- エウヌス (紀元前131)
- セクストゥス・ウァリウス・マルケルス (216年没)
- ガイウス・ユリウス・サトゥルニヌス (281年没)
- デメトリオス1世 (マケドニア王) (紀元前283年没)
- アブ・アル=フィダ (1331年没)