伝記
アブ・アル=フィダは、中世マムルーク朝シリアの武将、政治家、歴史家、地理学者である。1273年11月、ダマスカスに生まれた。家はサラディンの兄の末裔にあたるアイユーブ朝の王族で、代々ハマーを治め、マムルーク朝への政権交替後も同地を治めていた。父は領主の弟だったが、モンゴルの侵入で領主の一家がダマスカスへ逃れたときにこれに従い、アブ・アル=フィダはそこで生まれた。
十二歳のころからほぼ絶え間なく遠征に加わり、父や従兄弟である領主とともに、マムルーク朝のカラーウーンとアシュラフ・ハリールの父子による十字軍との最後の戦いに従った。1285年のマルガト、1289年のトリポリ、1291年のアッコン攻略戦に参加し、その後もイル・ハン朝や小アルメニア王国との戦いで活躍した。1291年にはマムルーク朝の十人長、翌年には四十人長に任じられている。
ところが1299年8月20日に従兄弟が急逝すると、ハマーのアイユーブ朝の嫡流は断絶し、アブ・アル=フィダは支配権を失った。同じ年、幼くしてスルターンの地位を追われていたナースィル・ムハンマドが復権し、アブ・アル=フィダはこの人物に仕えた。1301年には再び小アルメニア王国を攻めて大打撃を与え、イル・ハン朝のガザン・ハンによるシリア侵攻軍をタドモルで破った。1309年にナースィル・ムハンマドが再び王位を追われると、翌1310年にその復位計画に加わって成功させ、この功績で同年10月14日にハマーの知事に任命された。1312年8月30日にはマリク(領主)の称号を与えられたが、ダマスカスにはマムルーク朝の副王がおり、その指揮下にあった。ナースィル・ムハンマドらに経済的な支援を行い、1315年のマラティア遠征にも加わって、自らの立場とナースィル・ムハンマドの政権を固めようとした。
1319年から翌年にかけてのナースィル・ムハンマドのメッカ巡礼に随従し、1320年2月28日にスルターンの称号を認められて、シリアにおけるマムルーク朝の領主や知事の筆頭の地位に就いた。ハマーには多くの建築物を建てて、町の発展に尽くした。1331年に没するまで、ナースィル・ムハンマドの政権の重鎮として活躍し、没後は息子が地位を継いだが、1341年にナースィル・ムハンマドが死ぬとその地位を失い、アイユーブ朝は名実ともに滅んだ。
アブ・アル=フィダは学問にも優れ、中世イスラム世界を代表する歴史家として知られる。『人類史綱要』は、アダムの時代から1329年までの歴史を記した著作で、13世紀前半まではイブヌル・アシールの著作の要約であり、13世紀後半以後は、自らが政治や軍事の中心人物として関わった事項が多く含まれ、十字軍末期の状況やマムルーク朝、シリアの動向を知る上で重要な情報を残している。『諸国の秩序』は、中国から大西洋の島々、フランクからサハラ砂漠以南のスーダンまでの世界を28の地域に分けて解説した地理書である。中国やインド、ヨーロッパを訪れた経験はなく、多くは先人の地理書をまとめたものだが、各地域や都市の位置、読み方、特徴などをまとめた表を取り入れるなどの工夫が見られる。イスラム法学や薬学の著書もあったといわれるが、散逸して伝わっていない。
同じ年に亡くなった人物
- ステファン・ウロシュ3世デチャンスキ (セルビア王) (1331年没)
- Matilda of Hainaut (1331年)
- オドリコ (1331年没)
- アラエッティン・パシャ (1331年没)
- ウトマーン2世 (1331年没)
同じ地域に関係する人物
- デメトリオス1世 (マケドニア王) (紀元前283年没)
- ガイウス・ユリウス・サトゥルニヌス (281年没)
- ムハンマド・イブン・イスマーイール (809年没)
- セクストゥス・ウァリウス・マルケルス (216年没)
- エウヌス (紀元前131)