伝記
エリザベッタ・ディ・シチリアは、ハンガリー王ラースロー4世の王妃である。イザベッラ・ダンジョとも呼ばれ、ハンガリーではエルジェーベトまたはイザベッラと呼ばれた。1261年に、シチリア王カルロ1世と、その最初の妃ベアトリス・ド・プロヴァンスのあいだの末子として生まれた。
1270年にラースロー4世と結婚したが、子はなかった。王妃であった期間は、1272年から1290年までとされる。ラースローの母エルジェーベトは、異教徒のクマン族の出身で、ラースローは自分にクマン族の血が流れることから、エリザベッタを避けた。クマン族の衣装を好んで着て、友人にもクマン族が多かった。結婚生活の大半を、クマン族を追いかけて過ごし、彼らをハンガリーに呼んで住まわせようとした。キリスト教社会よりもクマン族の社会を好み、自分だけでなく廷臣にもクマン族の衣装を着せ、クマン族の愛妾を側に置いて、病がちの妃を避けた。クマン族がハンガリーを去ることを決めたときにも、力で引き留めようとした。
1286年、ラースローはクマン族の愛妾と暮らすため、エリザベッタを拘束した。エリザベッタはマルギット島に3年間監禁され、1289年になって、ようやくラースローは彼女と和解した。しかし、ラースローは自分の力だけでは家臣を従わせられないと判断すると、再びクマン族との関係を復活させた。ラースロー4世は1290年に、跡継ぎのないまま世を去り、父の従兄弟にあたるアンドラーシュ3世がハンガリー王位を継いだ。
夫の死後、エリザベッタはナポリに帰ったが、再びハンガリーに戻った。1294年、アンドラーシュ3世の王妃フェネンナが、ヴェスプレームの教会への寄付を集める彼女の特権を確認している。1301年に再びナポリに帰り、サン・ピエトロ修道院でドミニコ会の修道女となった。この修道院は、義理の姉妹で兄カルロ2世の妃、また夫ラースローの姉にあたるマリア・ドゥンゲリアが創設したものである。エリザベッタは1303年に世を去り、このサン・ピエトロ修道院に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- フェリー3世 (ロレーヌ公) (1303年没)
- ラーニー・パドミニー (1303年)
- Theodora Palaiologina (1303年没)
- ボニファティウス8世 (ローマ教皇) (1303年没)
- ステパノス・オルベリャン (1303年没)
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