伝記
シュテファン・ツヴァイクは、1881年11月28日にウィーンで生まれ、1942年2月22日に没したオーストリアのユダヤ系の作家であり、評論家である。1930年代から40年代にかけて大変高名で、多くの伝記文学と短編、戯曲を著した。特に伝記文学の評価が高く、『マリー・アントワネット』『メアリー・スチュアート』『ジョゼフ・フーシェ』などがある。
きわめて富裕なユダヤ系織物工場主モーリッツ・ツヴァイクと、イタリア人の銀行家の一族出身の妻イダの間に生まれた。ウィーン大学で哲学と文学史を学び、1904年に博士論文「イッポリート・テーヌの哲学」で哲学博士号を取得した。この博士号は1941年、ナチス支配下のオーストリアで人種的な理由から剥奪され、2003年4月になって回復された。世紀末ウィーンの優れた文化的環境のもとで、ギムナジウム時代から文学や芸術に親しんだ。ホーフマンスタールの流れを汲む新ロマン主義風の叙情詩人として出発し、詩集『銀の弦』(1901年)で文壇にデビューした。
第一次世界大戦が始まると、兵役を免れて、オーストリアの戦時文書課の軍務につき、混迷する世間から引っ込んで暮らそうとした。だが、ガリツィアの戦禍に触れたことや、ロマン・ロランとの交際などから、反戦の著述活動を活発化させる。反戦劇『エレミヤ』の初演を機に、中立国スイスのチューリッヒに渡り、ウィーンの新聞の特派員として記事を送ることを条件に同地に留まって、ロランらとともに反戦平和と戦後の和解に向けた活動に従事した。第一次世界大戦の直後には、アメリカで彼の小説が無許可で翻訳された際、対独感情の悪化を理由に、本名を英訳した仮名で刊行されている。
戦後はオーストリアに戻り、1919年から1934年までザルツブルクに滞在した。住居は、カプチーナベルクのパッシンガー城であった。1920年にフリデリケ・フォン・ヴィンターニッツと結婚し、広く知識人と交わって、ヨーロッパの精神的独立のために尽力した。この期間には多くの代表作が書かれ、中でも1927年の『人類の星の時間』は、ドイツ語圏で代表作とされている。1928年にはソビエト連邦を旅行してゴーリキーと交際し、1930年にはアメリカに旅行して、アインシュタインに面会している。1933年にヒトラーがドイツの首相に就任する前後から、オーストリアでも反ユダヤ主義的な雰囲気が強まり、1934年に武器所有の疑いでザルツブルクの自宅が捜索を受けたことを機に、ユダヤ人で平和主義者だったツヴァイクはイギリスへ亡命した。
その後、英国のバースとロンドンに滞在し、1940年に米国へ移り、1941年にはブラジルへ移住した。1942年2月22日、ヨーロッパとその文化の未来に絶望して、ブラジルのペトロポリスで、1939年に再婚した妻ロッテとともに、薬の過量摂取によって自殺した。死の1週間前には、旧日本軍によるシンガポール陥落の報に接し、同じ時期にリオデジャネイロのカーニバルを見ており、自分たちのいる所と、ヨーロッパとアジアで行われている現実とのギャップに耐え切れず、ますます悲観したようである。遺著となった回想録『昨日の世界』は、著者が失われたものと考えたヨーロッパ文明への賛歌でもあり、今日でも20世紀の証言として読まれている。作曲家リヒャルト・シュトラウスは、ナチ政権下で、歌劇『無口な女』の台本作家としてのツヴァイクの名前のクレジットを守るために戦った。
同じ年に亡くなった人物
- ジョン・バリモア (1942年没)
- ハビーブ・パシャ・アッ=サアド (1942年没)
- フリオ・ゴンサレス (彫刻家) (1942年没)
- 中島敦 (1942年没)
- L・M・モンゴメリ (1942年没)
同じ地域に関係する人物
- シキーニャ・ゴンザーガ (1935年没)
- マシャード・デ・アシス (1908年没)
- Manuel Antonio de Almeida (1861年没)
- Dmytro Zajciw (1976年没)
- ホセ・バリビアン (1852年没)