伝記
ウィリアム・ウォレスは、スコットランドの愛国者であり、騎士、軍事指導者である。1270年ごろに生まれ、1305年8月23日に処刑された。イングランド王エドワード1世の過酷な支配に対する抵抗運動を率い、1297年のスターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利した。前半生はほぼ分かっていない。レンフルーシャーの地主マルコム・ウォレスの子とする伝承があるが、後述のリューベック文書の印璽には父の名がアランと記されている。伝承の多くは、死後およそ200年を経た15世紀後半の吟遊詩人の詩から拾い集められたもので、確証に乏しい。
史料に確かな名が現れるのは1297年5月で、ラナークで統治にあたるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグを殺害した事件である。吟遊詩人の伝承では、恋人が殺されたことへの復讐とされるが、実際には、イングランド式の統治を進めたヘッセルリグの巡回裁判に反発するスコットランド人の一団が計画・実行し、ウォレスもそこに関わっていたと見られる。ウォレスは、下級貴族や中間層、下層民の間で急速に支持を広げ、分散していた抵抗運動を、民族的なゲリラの抵抗へとまとめていった。一方、大貴族は親イングランド的で、ウォレスを身分が低いと軽んじたため、積極的には協力しなかった。
1297年9月11日、ウォレスは、スコットランド北部で戦うモレーの軍と合流し、スターリング・ブリッジで、総督の第6代サリー伯ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と戦った。兵力では敵が優り、騎兵とウェールズ弓隊を擁していたが、ウォレスはフォース川の橋と、その先の湿地が一本道になっている地の利を生かして騎兵の機動力を奪い、勝利した。エドワード1世は前月からフランスに出兵して不在であったが、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた。その後の会議で、モレーとともにスコットランド守護官に任じられ、以後は「サー」と呼ばれるようになった。これは、王位が不在の国で、幽閉中のジョン・ベイリャルを真の王とみなして王国を守る立場を示すものであった。1297年10月には、リューベックとハンブルクの商人が自由にスコットランドへ出入りできると伝える手紙を、モレーと共同で送っている。
しかし勢いは長く続かなかった。貴族から軽んじられ、ベイリオル家の名で戦ったためブルース家の支持も得られないなか、フランスにいたエドワード1世は1298年1月にフランス王と講和して急ぎ戻った。同年7月22日のフォルカークの戦いでは、ジョン・カミン率いる貴族の騎兵が戦わずに撤退し、ウォレスは騎兵なしで戦って敗れた。責任を取って守護官を辞し、その後の1298年から1303年の動向はよく分からないが、フランスやローマを訪れて抵抗への援助を求めたことは資料から確かめられる。ローマ教皇ボニファティウス8世は1299年にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判した。1303年に帰国したが、エドワード1世は同年5月までにスコットランドを制圧しており、執拗な追撃を受けた。
1305年8月5日、かつての部下だったダンバートン総督の裏切りでイングランドに引き渡され、ロンドンへ移送されて、ウェストミンスター・ホールで裁かれた。大逆罪を問われたが、「自分は王に忠誠を誓ったことはなく、臣民ではない」と主張した。有罪となり、引きずられて、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処された。この残虐刑はスコットランドの抵抗を抑える狙いだったが、逆に国民感情を鼓舞し、間もなくエドワード1世の支配は崩れた。現在も英雄として崇拝されている。
同じ年に亡くなった人物
- フアナ1世 (ナバラ女王) (1305年没)
- ルジェ・ダ・フロー (1305年没)
- ブランシュ・ド・フランス (オーストリア公妃) (1305年没)
- 亀山天皇 (1305年没)
- ルジェ・ダ・ラウリーア (1305年)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・スタンデール・ベネット (1875年没)
- フレデリック (ヨーク・オールバニ公) (1827年没)
- ノーマン・バーケット (1962年没)
- メアリー・ジェーン・ケリー (1888年没)
- チャールズ・ウィルキンズ (1836年没)