HISTORICAL PERSON · 1308年没

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

スコットランド出身のフランシスコ会士で、精妙博士と呼ばれた神学者・哲学者。神学を実践的な学問と考え、自由意志を重んじた。スコトゥス学派の祖で、存在の一義性の考えは現代のドゥルーズにも影響した。

生涯
1308年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州 / ケルン)
出生地
イギリス連邦(ダンス (スコットランド))
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ノルトライン=ヴェストファーレン州)

伝記

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスは、スコットランドの神学者、哲学者で、フランシスコ会士である。1266年ごろ(1265年末とする説もある)に生まれ、1308年11月8日に没した。トマス・アクィナスの後のスコラ学の正統な継承者とされ、アリストテレスに通じ、思想の徹底した緻密さから「精妙博士」と呼ばれた。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。ドゥンスのジョンとも呼ばれ、スコトゥスの名は出身地のスコットランドに由来する。

スコットランド南東部のベリックシャー、現在のスコティッシュ・ボーダーズにあるドゥンスに生まれた。1280年にフランシスコ会に入り、司祭に叙階された。修道会の学院で学んだのち、オックスフォード大学で1291年から93年ごろに、ウィリアム・オブ・ウェアの教えを受けた。パリで学んだと考えた伝記作者もいるが、実際には学んでいないと見られ、パリの論理学は写本の流通や教師の教えを通じて知ったらしい。論理学の著作は、1290年から1300年の間に書かれたと考えられる。1300年ごろには、オックスフォードでペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』の註解の講義を始め、その要約が『講義録』の題で伝わる。1300年または1302年に、修道会のイングランド管区長の推薦を受けてパリ大学で教えたともされ、ここで新たな『命題集』の註解に取り組み、聴講者が取ったノートの形で『パリ講義録』が残った。

1302年には、神の讃美をめぐる討論に列席した。討論者は師のゴンサルヴス・ヒスパヌスで、反論者は後の神秘思想家のマイスター・エックハルトであった。これは、後にフランシスコ会総長となる人物の主意主義と、ライン地方の著名なドミニコ会士の主知主義とが対立する論争であったという。この時期、フランス王フィリップ4世は、フランス国内の全修道士に、教皇ボニファティウス8世に対する公会議の開催を求める請願への署名を命じ、拒めば3日以内に王国を去るよう迫った。スコトゥスは署名を拒み、おそらくオックスフォードに戻って教えたと考えられている。追放の期間はさほど長くなかった可能性も指摘される。1305年に神学博士となり、1306年から翌年には、修道会の学院の責任者である正教授を務めた。その後パリからケルンへ移り、ケルンの講師として記録が残る。移動の理由は不明であるが、総長となっていたゴンサルヴスの決定だとする伝承がある。ケルンで没し、3度目の『命題集』註解『オルディナティオ』は未完に終わった。墓は旧フランシスコ会の教会で今も見られる。

思想の面では、スコトゥスは神学を人間を神への愛に導く実践的な学問と考えた。トマスの存在の類比の説に対し、存在の一義性を唱え、存在という概念は神を含むすべてのものに同じ意味で語られるとした。神と被造物の差は、神が無限で被造物が有限であることにあるという。また、自然の必然と意志の自由を分けて考え、人間の幸福は神を見ることではなく、神を愛することにあるとした。個物の「このもの性」の概念は、現代の哲学者ドゥルーズに大きな影響を与えた。聖母マリアの無原罪の宿りを認めたことでも知られ、1993年に教皇ヨハネ・パウロ2世により列福された。出身地のドゥンスには銅像が建てられている。伝承によれば、彼は生きたまま埋葬され、後に棺を掘り起こすと、外へ出ようともがいて引きちぎられた血まみれの腕があったともいうが、真偽は分からない。

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