伝記
ゲオルギオス・パキュメレスは、ビザンツ帝国の歴史家、哲学者、音楽理論家である。1242年に小アジアのビテュニア地方にあるニカイアで生まれた。一家は、1204年に十字軍にコンスタンティノープルを奪われたとき、この町に避難していた。1261年にミカエル8世パレオロゴスがラテン帝国からコンスタンティノープルを取り戻すと、パキュメレスはそこに移り、ゲオルギオス・アクロポリテスに就いて法律を学んだ。聖職に入って助祭となり、1277年からは「書簡の教師」として教えた。のちに教会の重要な職と、宮廷の裁判官の長の役につき、これらの公的な地位によって多くの資料に接することができた。ギリシア人の伝統に深く愛着し、ローマ教会との合同には断固として反対した。
彼の最も重要な著作は、13巻から成る『歴史』である。アクロポリテスの歴史の続きとして、1261年から1308年までを描き、前半の6巻はミカエル8世、後半の7巻はアンドロニコス2世の治世を扱っている。どちらも彼自身が目撃した時代である。ミカエル8世がコンスタンティノープルに入った場面では、この勝利が偶然によるものだったことを強調し、まるで嘆いているかのようである。皇帝は祝賀に加わらず、煙とラテン人の火が壁に染みついたブラケルナエ宮殿ではなく、大宮殿に退いたという。小アジアの生まれのパキュメレスは、この地方に深い愛着を保っていたらしい。ミカエル8世が小アジアを見捨てたことや、正統な後継者の座を奪ったことが、パキュメレスの反感の理由かもしれないと考えられている。総主教アルセニオスは二人の共同皇帝に戴冠させるとき、互いに忠誠を誓わせ、一方が他方に対して陰謀を企てれば民衆が簒奪者に反抗するよう求めていた。ミカエル8世が幼い共同皇帝を盲目にすると、総主教はミカエル8世を破門し、自らも廃位されて、教会の分裂と民衆の反乱を招いた。
ミカエル8世に敵意を持つ一方、後継のアンドロニコス2世にはそれほど厳しくなかった。皇帝が小アジアを無防備のままトルコの脅威にさらした誤りに気づいて改め、廃された少年を幽閉先のダキビュゼに訪ねて和解しようとしたからだろうとされる。宗教面では、リヨンの教会合同に反対した皇帝が、アルセニオス派をなだめて、分裂した教会に平和を戻そうと努めた。それでも、トルコ系の諸部族が帝国にもたらす危険はよく知っており、ビテュニア、フリギア、リュディアなどを荒らす様子を記した。サンガリオス川の近くの戦いを記す中で、オスマンの名を歴史家として最初に挙げたのが彼である。また、カタルーニャ傭兵団の隊長ロジェ・ド・フロールの申し出を受け、アンドロニコス2世が追い詰められてこれを受け入れる経緯や、傭兵団が9月にコンスタンティノープルへ着いたことを記した。傭兵団がトラキアの海岸で働いた乱暴にも多くの頁を割いている。
パキュメレスは歴史書のほかにも、哲学の題材による修辞学の練習、算術・音楽・幾何学・天文学を扱った『四科』、アリストテレス哲学の概説、偽ディオニュシオス・アレオパギテスの演説や書簡の注解、自伝を含む詩などを著した。『四科』は中世の音楽史と天文学の研究に価値がある。アウグステオン広場の記述や、ユスティニアヌスがペルシアに対する勝利を記念してアヤソフィアに建てた円柱の記述も残している。没年は伝わっていないが、『歴史』が1308年に終わっていることから、その少しあとの1310年ごろに亡くなったと考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- Gottfried von Hohenlohe (1310年)
- ブランカ・デ・ナポレス (1310年没)
- アブー・アル=ラビ・スライマーン (1310年)
- Abdallah Ibn-Ahmad Nasafi (1310年没)
- マルグリット・ポレート (1310年没)
同じ地域に関係する人物
- バヤズィト2世 (1512年没)
- ムラト4世 (1640年没)
- Patriarch Metrophanes III of Constantinople (1580年没)
- アシナゴラス (コンスタンディヌーポリ総主教) (1972年没)
- ヨランド・ド・エノー (1219年没)