HISTORICAL PERSON · 1943年没

ゾフィー・ショル

ドイツの女子大学生で反ナチ活動家。白バラ抵抗運動の主要メンバーとして非暴力で抵抗したが、兄ハンスらとともに死刑判決を受け処刑された。

生涯
1943年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / ミュンヘン刑務所)
出生地
ドイツ連邦共和国(フォルヒテンベルク)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ゾフィア・マグダレナ・ショル、通称ゾフィー・ショルは、1921年5月9日、フォルヒテンベルクの市長ローベルト・ショルの子として生まれたドイツの女子大学生で、反ナチ活動家である。きょうだいの四番目で、姉インゲ、兄ハンス、姉エリーザベト、弟ヴェルナーがいた。田園の自然のなかでのびのびと幼年期を過ごし、1930年に一家はルートヴィヒスブルクへ移り、1932年に父が税理士兼コンサルタントとして落ち着くためウルムへ引っ越した。同じ1932年に、ナチスの少女組織であるドイツ女子同盟に入団した。しかし、リベラルでナチスに批判的な父の影響などから、組織に疑念を抱いて距離を置いた。友人の手を通して、禁書だったトーマス・マンの本を読み、ナチズムに抵抗する考えを抱くようになった。上位の女性指導者に、ハイネの本を課題図書とするよう強く主張したこともある。ナチスに「退廃芸術家」として追放された画家たちが、一家と親しく、ゾフィーを援助した。

1937年11月、非合法活動を理由に「1・11ドイツ青年会」への取り締まりがあり、姉インゲ、弟ヴェルナーとともにゲシュタポに逮捕され、兵役中の兄ハンスも逮捕された。ゾフィーは「男の子と間違えられて」の逮捕だったため、取り調べを受けずに釈放されたが、この出来事は大きな精神的打撃となり、ナチスへの反感を増した。1940年にアビトゥアを取得したが、大学に入るには半年間の国家労働奉仕団の役務が必要だった。ウルムの保母養成所で過ごしてこれに代えようとしたが、認められず、結局服務することになった。1941年7月、当局は女子青年にさらに半年間の戦時協力勤務を義務づけ、ゾフィーは同年10月からブルムベルクの託児所で保母を務めた。1942年5月、生物学と哲学を学ぶためミュンヘン大学に入学した。同年8月、父が「ヒトラーが戦争をやめなければ、2年後にロシアがベルリンに侵攻する」と発言したためゲシュタポに逮捕され、禁固4か月の判決を受け、ゾフィーは休暇中の8月から軍需工場で2か月間徴用された。

1943年2月18日、ゾフィーは兄ハンスとともに、ミュンヘン大学で、白バラのメンバーが起草した6番目のビラを講義室の前に置き、最後に残ったビラを3階から吹き抜けのホールにばら撒いたところを、大学の職員に見つかって拘束され、ゲシュタポに引き渡された。尋問では二人とも、ビラは知らずに落としたと否定した。しかし、ハンスの住居から、ビラの草案とクリストフ・プロープストの手紙、8ペニヒの切手数百枚が見つかり、兄妹はプロープストから嫌疑をそらそうとしたが、ビラの作成はハンスとプロープストの二人が行ったものだとして、プロープストも逮捕された。逮捕の4日後の2月22日、民族裁判所長官ローラント・フライスラーは、三人を感情的に非難する口調で尋問し、軍需のサボタージュや総統への誹謗中傷、利敵行為を行ったとして、死刑判決を下した。三人は、自分たちの行為は多くのドイツ人が内心では支持していると反論した。

その日の夕方5時、ミュンヘンのシュターデルハイム刑務所で、ゾフィーはハンス、プロープストとともに斬首刑に処された。21歳であった。遺体はペルラッハ・フォルスト墓地に埋葬された。ゾフィーらがばら撒いたビラはスカンジナビア経由でイギリスに渡り、連合国がドイツに降伏を呼びかける伝単として使われた。ゾフィーには4歳年上の婚約者フリッツ・ハルトナーゲルがおり、彼は戦争を生き延びて、のちにゾフィーの姉エリーザベトと結婚した。

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