HISTORICAL PERSON · 1313年没

アンナ・プシェミスロヴナ

ケルンテン公ハインリヒ6世の妃。夫がボヘミア王位を得たが敵方に追われケルンテンへ逃亡するなど波乱の生涯を送り、22歳で子のないまま死去した。

生涯
1313年没
死亡地
スロベニア共和国(リュブリャナ)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
スロベニア共和国(リュブリャナ)

伝記

アンナ・プシェミスロヴナは、1290年10月15日にプラハで生まれたボヘミアの王女である。父はボヘミア王兼ポーランド王ヴァーツラフ2世、母はローマ王ルドルフ1世の娘グタ(ユッタ)で、母が産んだ10人の子のうち成人したのは4人だけだった。双子の姉だったアネシュカは2歳で亡くなり、母も1297年、アンナが7歳のときに世を去った。兄にヴァーツラフ3世、妹にエリシュカとマルケータがいる。1300年、父はポーランドの王女エリシュカ・リクセと再婚し、ポーランドの王冠を得た。この再婚で娘アネシュカが生まれている。父は多くの庶子ももうけ、その中にはのちにオロモウツの司教となるヤン・ヴォレクもいた。父は1305年に没し、兄ヴァーツラフ3世が跡を継いだ。

1306年、アンナはプラハで盛大な式を挙げ、ケルンテン公ハインリヒ6世と結婚した。ハインリヒはマインハルトとエリーザベト・フォン・バイエルンの子である。結婚した同じ年に兄ヴァーツラフ3世が暗殺され、プシェミスル家の男子は途絶えた。王家の長女の夫となったハインリヒはボヘミア王に選ばれ、ポーランド王の称号も受け継いだ。だが、ハプスブルク家のルドルフ3世がこれに強く反対した。ルドルフは亡き父王の未亡人エリシュカ・リクセと同年にプラハで結婚し、父のアルブレヒト1世から王国を帝国の封土として与えられた。ボヘミアの実権はルドルフに奪われ、アンナ夫妻は追われてケルンテンへ逃れた。

ところがルドルフは翌1307年に急死した。ハプスブルク家の要求をよそに、夫妻は貴族たちの幅広い支持を得てボヘミアの王位に戻った。夫妻の間に子は育たず、娘が生まれたが数か月で亡くなったともいわれる。

夫妻は次に、アンナの未婚の妹エリシュカの縁談に心を向けた。最初の相手に考えたのはブルクガウの領主オットー・フォン・ロブデブルクだった。しかしエリシュカは持ち込まれる縁談をことごとく断り、姉の怒りを買った。一方でハインリヒの治世には貴族の反対が強まり、ローマ王ハインリヒ7世がボヘミアに関心を寄せていた。1310年、ハインリヒ7世は14歳の息子ヨハンを18歳のエリシュカと結婚させた。この結婚でアンナと妹は決別した。アンナはマインツ大司教ペーター・フォン・アスペルトに助けを求めたが得られず、大司教はヨハンをプラハ城のある丘で王として戴冠させた。ヨハンの軍勢が首都プラハを占領し、アンナとハインリヒは退位して再びケルンテンへ引き揚げた。

アンナは二度と故国に戻ることなく、1313年9月3日、22歳で亡くなった。亡くなった場所はケルンテンともリュブリャナともいわれ、ボルツァーノのドミニコ会修道院に葬られた。夫ハインリヒはその後二度結婚し、アーデルハイトとの間に娘マルガレーテ(マウルタッシュ)が生まれた。ハインリヒはティロル城で世を去った。

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