HISTORICAL PERSON · 1313年没

アルナルドゥス・デ・ビラ・ノバ

モンペリエで学んだ医師・薬剤師で、患者に3人の教皇と3人の国王がいた。イスラーム世界の医学書をラテン語に訳し、リトマスが染料になることを発見。1311年、アヴィニョンへ向かう船の難破で死去した。

生涯
1313年没
死亡地
イタリア共和国(ジェノヴァ)
出生地
スペイン王国(サラゴサ県 / ビジャヌエバ・デ・ヒロカ)
出典
世界地図
イタリア共和国(サラゴサ県)

伝記

アルナルドゥス・デ・ビラ・ノバは、中世の医師・薬剤師・神学者で、フランス語ではアルノー・ド・ビルヌーブ、カタルーニャ語ではアルナウ・ダ・ビラノバと呼ばれる。1235年ごろから1240年のあいだに、貧しい家に生まれたとされる。出生地は議論が多く、モンペリエ近郊のビルヌーブ・レ・マグローヌとする歴史学者、バレンシアとする説のほか、1962年に見つかった写本の余白の書き込みから、アラゴン王国の端のダロカの近くとする説もある。バレンシア王国が築かれて間もないバレンシアで育ち、当時そこで広く使われていたアラビア語に親しんだ。のちには自分のことをカタルーニャ人と称している。

1260年ごろ、20歳のころにパリで教養学の学位を得ようとし、ロジャー・ベーコンやトマス・アクィナスを師とし、のちの教皇クレメンス5世となるベルトラン・ド・ゴと出会って親交を結んだともいわれる。1270年ごろにはモンペリエで医学を学び、医学の師の資格を得た。ドミニコ会のもとで神学も学び、アラビア語とラテン語、おそらくヘブライ語も修めた。下級聖職の身分を捨ててモンペリエの商人の娘アニェス・ブラジと結婚し、その後もバルセロナのドミニコ会で聖書を学び続けた。二人の娘マリアは、のちにバレンシアのドミニコ会の修道女になった。

アルナルドゥスは医師または使節として、フランス、カタルーニャ、イタリアを渡り歩いた。1280年ごろ最初の医学書を書き、のちに40ほどの著作が続いた。1281年ごろまでアラゴン・カタルーニャ王国の君主の主治医をつとめ、バルセロナに暮らした。1285年にアラゴン王ペドロ3世の最期に呼ばれ、報酬として、タラゴナ地方のオリェルス城の収益を与えられた。この年、王が没するとバルセロナを去ってモンペリエに向かった。1288年の著作では、フィオーレのヨアキムの影響を受け、1378年に世界が終末を迎え、反キリスト者が現れると主張した。1299年までモンペリエの医学校で教え、校長をつとめたともいわれる。講義ではガレノスの医学書を擁護し、医療の実践を支える大原則を示そうとした。この時期に医学と神学の著作の大半を書いたとされる。

その後パリに出て評判を呼んだが聖職者の反感を買い、1299年にはパリ大学から異端説を広めたとして非難された。教会改革を唱えたことで投獄もされたが、教皇ボニファティウス8世に救われた。患者には3人の教皇と3人の国王がいたといわれ、1300年ごろにはリトマスが染料になることを発見したとされる。1301年には、教皇の結石を、占星術にもとづく金の印章で和らげ、その成功が名声を大きく高めた。1309年には再びパリで投獄された。パリ大学はアルナルドゥスの哲学的作品の焼却も命じた。1311年、教皇クレメンス5世の治療のためアヴィニョンに招かれたが、航海中に船がジェノヴァ沖で難破して亡くなった。没年は1311年とも1313年ごろともいわれる。

親交のあったラモン・リュイとともに、薬草を蒸留して作るリキュールの祖ともいわれる。イブン・スィーナー(アヴィセンナ)やガレノスの医学書をアラビア語からラテン語に訳しもした。大半の作品はカタルーニャ語で書かれたことが確かである。ラテン語やカタルーニャ語の神学作品も多く、教会改革を訴え、終末の予言を含む。その後、彼の名で数多くの錬金術書が出回ったが、これらは疑わしいとされる。著作集は1504年と1532年にリヨンで出され、1585年にバーゼル、1603年にフランクフルト、1686年に再びリヨンで出版された。

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