伝記
アラー・ウッディーン・ハルジーは、1266年もしくは1267年に生まれ、北インドを治めたデリー・スルタン朝のハルジー朝で、第3代のスルターン(2代目とも数える)となった人物である。ハルジー朝を開いたジャラールッディーン・ハルジーの甥であり、その娘婿でもあった。1292年にデリー東部の都市カラーとその周辺の知事に任じられ、1294年には、義父の許しを得て、イスラム王朝の軍としては初めてヴィンディヤ山脈を越え、デカン高原のヤーダヴァ朝を攻めた。1296年にその首都デーヴァギリを占領すると、慣例に反して戦利品を義父に献上せず、自軍の費用に充てた。同じ年、陣営を訪れたジャラールッディーンを暗殺し、協力した部下には約束どおりの褒賞を与えて、3か月かけてデリーへ進んだ。
デリーでは、ジャラールッディーンの妃マリカイ・ジャハーンが、自分の子ルクン・ウッディーンをスルターンに立てていた。アラー・ウッディーンは道中、デカン遠征の戦利品で兵を集め、金銀貨をばらまいて人気を得ながら、デリーの支持者を買収して寝返りを待った。貴族と軍人のほとんどが彼の側に回るとデリーに入城し、ルクン・ウッディーンを盲目にし、マリカイ・ジャハーンを軟禁して、スルターンに即位した。
治世の初めから、チャガタイ・ハン国のドゥアの軍がしばしば北インドに侵入し、デリーは二度、陥落の危機にさらされた。1298年の侵入を退けて威信が高まると、買収で寝返った貴族たちを粛清した。1299年にはグジャラートのヴァーゲーラー朝へ軍を送ってカルナ2世の軍を破り、首都を攻め落としたが、軍を引き上げたため、カルナ2世がそのまま統治した。この遠征の帰途、戦利品の分配に不満を持つ新ムスリムが反乱を起こし、ランタンボールの王ハンミーラが彼らをかくまった。ハルジー朝の軍が兵糧攻めにすると、ハンミーラは突撃して戦死した。アラー・ウッディーンはデリー郊外の反乱者の子を虐殺し、妻女を奴隷としたが、歴史家バラニーはこれを批判した。1299年から翌年にかけては、ドゥアの子クトゥルグ・ホージャの20万の軍がデリー近郊まで迫ったが、彼自身の率いる軍が退けた。1302年の冬、ランタンボール遠征中に12万のモンゴル軍がデリーを包囲し、帰国した彼は入城できずシーリーに拠点を移した。しかし2か月後にモンゴル軍は突如撤退した。1304年には謀反を疑ってグジャラートを再び攻め、ヴァーゲーラー朝を滅ぼした。
1307年、貢納を拒んだヤーダヴァ朝に、改宗した解放奴隷マリク・カーフールを送り、王ラーマチャンドラを捕らえてデリーへ連れてこさせた。王は丁重に扱われ、領地を与えられて、婚姻による同盟が結ばれた。モンゴル軍の侵入は1308年にひとまず終わった。その後、カーフールは1309年ごろにチャンデーラ朝を滅ぼし、1310年にワランガルを、翌1311年にドゥバーラサムドラを攻略し、さらに南へ進んでコモリン岬にまで達した。1310年から翌年には、イルハン朝のオルジェイトゥから降伏を勧める使節団が来たが、18人全員を象に踏み殺させた。同じ1311年には、ジャーロール城砦も陥落した。
治世を通じて、秘密警察で国内を監視し、貴族の結婚を許可制にして宴会を禁じた。測量に基づいて収穫高の半分を税とし、常備軍を置いた。晩年は奢侈に溺れて健康を害し、マリク・カーフールの影響力が強まって、正妃の追放や、妃の兄弟の処刑、後継者としていた息子ヒズル・ハーンの投獄が行われた。1316年1月2日、水腫のため死去したが、カーフールが死期を早めたとの噂が流れた。
同じ年に亡くなった人物
- マージョリー (1316年)
- ルイ10世 (フランス王) (1316年没)
- ヴィテニス (1316年没)
- Louis of Burgundy (1316年)
- マリク・カーフール (1316年没)
同じ地域に関係する人物
- Mambillikalathil Govind Kumar Menon (2016年没)
- Shanti Swaroop Bhatnagar (1955年没)
- ムイズッディーン・バフラーム・シャー (1242年没)
- イブラーヒーム (ムガル皇帝) (1703年没)
- ダーラー・シコー (1659年没)