伝記
ステファン・ドラグティンは、13世紀から14世紀にかけてのセルビア人の君主である。セルビア王ステファン・ウロシュ1世の長子で、母はアンジュー家出身の王女ヘレナ。生まれた場所も時期も分かっていないが、1244年ごろに生まれたとする説がある。1268年ごろ、ハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘カタリンを妻に迎えた。これは、父ウロシュ1世がハンガリーと結んだ和平のなかで取り決められたと考えられている。1271年には、父の跡を継ぐ権利を認められて「若き王」の称号を受けた。
ドラグティンはセルビア国内の親ハンガリー派の指導者的存在で、そのために父と対立した。1276年、ハンガリー王ラースロー4世が送った軍の支援を受けて反乱を起こし、ガツコでの戦いの後に父から王位を奪い取った。この政変のあと、セルビア大主教ヨアニキエ1世も職を退いた。即位後のドラグティンは、ゼタやトレビニェなどの沿岸部を含む領土の多くを母に封土として与えたほか、ビザンツ帝国への攻撃を始めたが、成果は上がらなかった。退位したウロシュ1世はソポチャニ修道院に入り、1年後に没したという。
1282年、狩りの最中に脚を負傷して健康を害した。協議の結果、セルビア王位は弟のステファン・ウロシュ2世ミルティンが継ぎ、ドラグティンはセルビア北部の領地を持つことになった。子のヴラディスラフがハンガリー王家の王女と結婚すると、1284年にハンガリー王ラースロー4世からベオグラードとマチュヴァを与えられた。新たな支配地はスレム王国と呼ばれ、首府は最初デブルツに置かれたが、のちにベオグラードへ移された。ドラグティンはセルビア人の君主として初めてベオグラードを首都に定めた人物である。実際に支配していたのは下スレムにあたる地域だったと考えられているが、上スレムとスラヴォニアも支配したと記す史料もあれば、それらはハンガリー人貴族チャーク・ウグリンの支配下にあったと述べる史料もある。1290年代からは実際には独立した君主として国を治め、13世紀末からはブラニチェヴォとクチェヴォを版図に加えた。
やがてミルティンがビザンツ帝国との関係を強め、ヴラディスラフにスレム王国を継がせない意思を明確にすると、兄弟の間に対立が生まれた。しかし教会の仲裁により、対立は1313年まで小康状態に収まっていた。ドラグティンは晩年になってハンガリーの協力者との関係を絶ち、セルビア国内の支持者を増やしていった。ボスニア王国のバン、スチェパン・コトロマニッチとの間に婚姻関係を築いたのちには、トゥズラなどボスニア方面の領土も得た。
ドラグティンは修道院に入り、名をテオクティストと改めた。1316年3月12日に没し、ノヴィ・パザル近郊のジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院に葬られた。死後はヴラディスラフがスレム王の地位を継いだ。生前には立派な修道院をいくつも建てており、フルシュカ・ゴーラ山地にある聖母マリアの聖骸布を納めたマラ・レメタ修道院や、スタリ・ラスのジュルジェヴィ・ストゥポヴィ修道院が知られる。カタリンとの間には3人の子があり、エリザベトはスチェパン・コトロマニッチの妻となり、ウロシッツァは修道士になった。セルビアの聖人としては、11月12日または10月30日に祀られる。
同じ年に亡くなった人物
- エリザベス・オブ・リズラン (1316年没)
- 郭守敬 (1316年没)
- オルジェイトゥ (1316年没)
- ヴィテニス (1316年没)
- ルイ10世 (フランス王) (1316年没)
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