伝記
ラシードゥッディーンは、イルハン朝後期に活躍した政治家であり、医師、歴史家である。1247年に生まれ、1318年に処刑された。第7代君主ガザンから、オルジェイトゥ、アブー・サイードの治世にかけて仕え、ガザンとオルジェイトゥの命で編まれたペルシア語の世界史『集史』の編纂責任者として知られる。イランの歴史では「ハージャ・ラシードゥッディーン」や「医師ラシードゥッディーン」などと呼ばれた。
イラン中西部のハマダーンで、ユダヤ教徒系の家系に生まれた。父は薬剤師とされ、祖父はイルハン朝の創始者フレグに仕えた廷臣だったという。ハマダーンはユダヤ文化の重要な中心で、ラビの学院もあった。医学を学び、医師としてイラン各地を遊学したのち、アバカの時代にイルハン朝の宮廷で典医として出仕した。当初の役目は、ハンの食事を用意し、味見をすることであった。1277年ごろにイスラームへ改宗したとされ、彼自身はシャーフィイー法学派のムスリムであった。ただ、もとの信仰については研究者の意見が分かれ、同時代の文書は彼のユダヤ系の出自にしばしば触れ、政敵も死後1世紀を経てなお、それを言い立てた。その後もアルグン、ガザンのもとに仕えた。
ガザンが即位した後の1297年(1298年とする資料もある)に、宰相サドルッディーン・ザンジャーニーが処刑されると、サアドゥッディーン・サーヴァジーとともに登用されて宰相となり、ガザンの推し進めるイルハン朝の改革政策を補佐した。彼は常に補佐役と並んで職務にあたり、独りで権力を握ることはなく、その地位は不安定であった。有能な行政官として税制、商業、法、駅伝制度の改革に携わり、定住するイラン人をモンゴル貴族の貪欲から守ろうとしたとされる。1302年から1303年にかけては、ガザンのマムルーク朝遠征にも同行した。
ガザンの没後もオルジェイトゥのもとで財務を中心に国政の大部分を握り、多くの子を要職につけた。1309年にはタブリーズに、自らの墓所を中心とするラシード区を造営した。しかし政敵アリー・シャーとの政争が続き、アブー・サイードがハンに即位して間もなく、オルジェイトゥの病没時の診断を誤診と咎められた。1318年、オルジェイトゥのシャーベット係として近侍していた長男イブラーヒームとともに処刑された。
1301年、ガザンの特命でモンゴル史の編纂を命じられた。ガザン在世中には完成せず、オルジェイトゥの時に『幸福なるガザンの歴史』として献呈された。さらにオルジェイトゥの命で、これを第1巻とし、古代やアラブ、中国、インド、ヨーロッパの世界史を第2巻とする増補改訂版が編まれ、1314年に完成した。これが『集史』である。この編纂は、内紛で解体しかけていたモンゴル王族と諸部族の系譜を確かめ、内戦に勝った政権の正統性を主張する意図があったと考えられている。彼は、ガザン自身の口述や、王家の宝庫に秘蔵された歴史書「アルタン・デプテル」の閲覧などを用いたという。またモンゴル帝国下の華北で編まれた中国医学書を研究して『タンスーク・ナーマ』にまとめ、農書も著した。『集史』はアラビア語版も作られ、非ペルシア語圏でも広く読まれた。
同じ年に亡くなった人物
- エリク・マグヌソン (セーデルマンランド公) (1318年没)
- ヨハネス2世ドゥーカス (1318年没)
- Abdisho bar Berika (1318年)
- ミハイル・ヤロスラヴィチ (1318年没)
- エドワード・ブルース (1318年没)
同じ地域に関係する人物
- マフムード・シャベスタリー (1320年没)
- ダティス (紀元前489)
- アルカス・ミールザー (1550年没)
- バイドゥ (イルハン朝) (1295年没)
- フレグ (1265年没)