伝記
インゲボリ・マグヌスドッテル・アヴ・スヴェーリエは、1277年に生まれ、デンマーク王エーリク6世の王妃となった女性である。スウェーデン王マグヌス3世と、ヘルヴィヒ・フォン・ホルシュタインの娘であった。
1288年にエーリク6世と婚約し、1296年にヘルシンボリで結婚式が行われた。エーリク6世がルンド大司教と対立していたため、結婚に必要な特免状が届いたのは1297年のことだった。この結婚は王家の婚姻政策の一環であり、1298年にはインゲボリの弟でスウェーデン王のビルイェルが、エーリク6世の妹マルタと結婚している。
王妃となったインゲボリは、美しく思いやりのある人物であったと伝えられる。結婚の際に恩赦を願ったという内容の歌が残り、同時代のデンマークとスウェーデンで歌われた歌は、彼女の慈悲の心と公平さをほめたたえている。デンマークで人気があり、「よき女性」と呼ばれた。政治的にどのような役割を果たしたかについては記録がない。夫のエーリク6世は、スウェーデンで王位継承をめぐる対立が起きていた間、ビルイェルとその妃マルタと同盟を結んでいた。1306年にビルイェル夫妻が王の弟のセーデルマンランド公エリクとヴァルデマールに捕らえられると、インゲボリ夫妻はビルイェルの息子を預かった。
インゲボリは、いずれも早世した8人の息子を産み、6回流産したとされる。子の数は記録により8人から14人まで異なるが、いずれにせよ妊娠を重ねても流産が続き、生まれた子も皆早く亡くなった。1318年には、エリクとヴァルデマールが幽閉されてまもなく死去し、ビルイェル夫妻がデンマークに亡命してきた。この年、インゲボリは流産を繰り返したあとに男の子を産み、大いに祝われた。ところが、インゲボリが馬車から民衆にこの幼児を見せようとしたとき、馬車が突然倒壊し、幼児は手から落ちて首の骨を折り、亡くなってしまった。
息子の死後、インゲボリはロスキレの聖カタリーナ修道院に入った。その理由は様々に伝わる。自らの意思で入ったとするものは、息子を失った悲しみゆえ、あるいは弟のエリクとヴァルデマールの死を悲しんだためという。ほかに、息子を失ったことでインゲボリを責めた夫が、無理やり修道院に閉じ込めたともいわれ、弟たちの政治的な策略に深く関わりすぎたために監禁されたともいわれる。いずれにせよ、インゲボリはそれ以前からこの修道院の後援者だった。1319年に夫と大司教に自身の死を予言したといわれ、まもなく死去し、夫のエーリク6世もその後まもなく世を去った。インゲボリはリングステズの教会に葬られた。墓には「私、スウェーデン王女インゲボリは、かつてデンマーク王妃でしたが、私が原因で悲しむ人々に許しを請います。どうか私を許し、私の魂を記憶にとどめてください」という銘が記されている。
同じ年に亡くなった人物
- ホーコン5世 (ノルウェー王) (1319年没)
- ドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ (1319年)
- エーリク6世 (デンマーク王) (1319年没)
- ベアトリクス・フォン・ルクセンブルク (1319年没)
- フアン・デ・カスティーリャ (バレンシア・デ・カンポス領主) (1319年)
同じ地域に関係する人物
- クリスチャン2世 (デンマーク王) (1559年没)
- リキサ・ア・ダンマーク (スウェーデン王妃) (1220年没)
- Harry Larsen (1974年没)
- ヴィゴ・カンプマン (1976年没)
- ゾフィー・フォン・メクレンブルク (1631年没)