伝記
クリスチャン2世は、1481年7月1日にニュボー城で、デンマーク王・ノルウェー王・スウェーデン王ハンスの子として生まれた。デンマーク王・ノルウェー王としての在位は1513年から1523年で、1520年から1521年にはスウェーデン王も兼ねた。若い頃は父のスウェーデン征服やデンマーク・スウェーデン戦争に加わり、1506年にはノルウェーの総督に任じられた。ノルウェー統治の間、貴族が国務会議を通じて持っていた伝統的な影響力を削ごうとして、会議と対立したという。
ベルゲンを訪れた折にネーデルラント系のノルウェー人の少女デューヴェケと出会い、愛人とした。のちに神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世の孫娘イサベルを王妃に迎えたが、愛人との関係は続いた。王妃には冷淡で、ほとんど顧みなかったといい、祖父マクシミリアン1世が兄カール(のちの皇帝カール5世)を通じて抗議したこともあった。デューヴェケの母シグブリットは才気ある女性で、王の相談役として経済政策などを補佐したが、封建貴族の不満を招いた。1513年に父の死を受けて即位すると、デンマーク王・ノルウェー王として承認され、1514年の夏にコペンハーゲンとオスロで戴冠した。
1517年、デューヴェケが突然死した。王は有力貴族トルベン・オクセが毒殺したと信じさせられ、国務会議ではなく通常の陪審に裁かせて処刑したため、貴族との対立は決定的になった。死の真相は不明である。この年はルターが宗教改革を始めた年でもあり、王はカトリック教会を牽制するためルター派の布教を容認し、聖職者の反発も強まった。またコペンハーゲンをバルト海貿易の中心にしようとして、ハンザ同盟とも対立を深めた。一方で、勃興する都市市民や貴族に反感をもつ農民を支持基盤に、王権の強化を図った。
当時のスウェーデンでは反カルマル同盟の動きが強く、摂政ステーン・ステューレが実権を握っていた。1517年と翌年の遠征は失敗に終わったが、1520年にフランス人、ドイツ人、スコットランド人の傭兵からなる大軍で攻め、ステューレを敗死させ、スウェーデン王位を手にした。ところが、その直後に反対派をストックホルムで処刑した「ストックホルムの血浴」は完全に裏目に出た。処刑を免れたグスタフ・ヴァーサが蜂起してグスタフ1世として即位し、カルマル同盟は崩壊した。国内でも貴族の反乱を招き、1523年に王は叔父フレゼリクにデンマーク王位を譲ってネーデルラントへ亡命した。
王妃イサベルは亡命後、フレゼリク1世からデンマーク宮廷へ戻るよう勧められても断り、夫と共に暮らし続けたとされる。彼女の没年は1525年とも1526年ともいわれ、その後、王妃の実家が王の3人の子を引き取った。ケブンハウンの都市市民や、貴族の圧政に不満を抱く農民は、なお王の支持者だったという。亡命中の王は復権を図り、カール5世から王妃の持参金の残額を得て軍を組織し、1531年から1532年にかけてノルウェーに侵攻したが、フレゼリク1世側に捕らえられ、生涯を幽閉のうちに過ごした。最初はゾンダーボー城、のちにカロンボー城に置かれた。その間の伯爵戦争(1534年〜1536年)でも復位を目指す動きがあったが実らず、1559年1月25日にカロンボーで没した。スウェーデンでは残忍な暴君とされる一方、デンマーク史では、官僚制を整え都市市民と結んで王権を強めた点に、絶対王政の萌芽を見る評価もある。
同じ年に亡くなった人物
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- アダム・リース (数学者) (1559年没)
- ヴィルヘルム1世 (ナッサウ=ディレンブルク伯) (1559年没)
- フランツ・オットー (ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公) (1559年没)
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